新たに神子上典膳を加えた一刀斉一門は、修行の為に全国を周遊しいていた。
「良いか、典膳」
新弟子の典膳を相手取り、善鬼は一門の心得を諭していた。
「我が一門は世上に群がる有象無象の輩とは違う、命懸けの兵法を模索する流派ぞ。常に己が一命を死地に曝し、その窮地から生を掴む、左様心得るがよい」
「はは__」
典膳は一本気で純粋な青年である。先輩の善鬼の言葉に、真摯に耳を傾けて聞き入っていた。
「師は仰せられた。わしから技を盗み、その技を持って師を斃す者、それが我が一門の後継者なり、と」
先輩風を吹かせて新入りにあれこれと教え込む善鬼の姿を、一刀斉は何かしら安心したような気分で眺めるのだった。
「当然、わしとそなたも同じ、何れは師の後を争うて刃を交える宿命にある。その覚悟は据えておかねばならぬぞ」
「承知いたして候」
"これで、善鬼めも変わるやも知れぬ"
一刀斉は、内心秘かな期待を抱いていた。
近頃めっきり鋭気が失われた一刀斉は、正直善鬼の生一本な情熱に疲れを覚えていた。元はと言えば自分自身が吹き込んだ事であったが、その一刀斉自身が最早その荒ぶる闘争心を失いつつあった。
"善鬼と、典膳が手を携えて我が流儀を継いでくれれば__"
堕落と言えば堕落だが、今の一刀斉は既に昔の彼とは何もかもが違っていた。かつて自らの手で己が弟子達を切り殺した無情の剣師伊藤一刀斉も、五十を過ぎて考え方が守りに入ったようである。
因みにこの当時、一刀斉は自らの流儀を一刀流とは称していない。流派の名すら余り吹聴する事も少なく、その流名を無元流と称していた。無元__何やら仏教風、と言うよりはどこか東洋思想、それも何かインド哲学の匂いが漂うような言葉である。この頃、日本には様々な外国文化が流入していた。ポルトガル商人の手で種子島に齎された鉄砲を始め、キリスト教、更にコペルニクスの地動説に至るまで、様々な新思想が入って来ている。インド文化はそれに遡る事千年、仏教伝来とともにこの国に渡来しているが、この時代には更に多くの異文化が入り乱れ、ポルトガル船に乗って商人や宣教師だけでなくアフリカ人(正直この言い方は好きではない。人類発祥の地はアフリカであり、厳密に言えば全ての人間がアフリカ系と言えるはずではないか)やバラモン僧までが亡命したらしい。それまで中国を経由地として資料のみの存在であったインドの現物が、とうとうイスパニアの交易船に乗ってゴアから本邦に遙々直輸入された訳である。古くからの日本語の中にも外国語は入り込んでいるらしく、首級の事を"しるし"と呼ぶのは、インドで頭を意味する"シールシャ"に由来すると言う説がある。個人的には、かまどを意味する"へっつい"も、ギリシア神話に登場するかまどの神ヘスティアから来ているのではないかと思うのだが。法隆寺の柱はパルテノン神殿の影響があるとも言われているから、満更あり得ないとは断言できぬであろう。
話が大分脱線した。一刀斉が称した無元流と言う流名がインド思想の影響であると言うのは只の個人的な直感であるが、有るとも無いとも言い切れないであろう。一刀斉自身、別にインドを意識した訳ではないのかも知れないが、関連を疑っても良さそうだとは思う。何せ、江戸初期に隆盛を極めた異端の流派、無住心剣術こと夕雲流などはその伝書の内容から、前時代に入ってきたキリスト的一神教の思想から影響を受けたのではないかとの説を唱える研究者も有る位だから、天竺のヴェーダンタ哲学位ならばまだしも可能性があると言って間違いではあるまい。
典膳は見る間に腕を上げた。元々素質はある上に、善鬼とは違うが矢張り生真面目な性格で兵法の修行にのめり込む様が傍から見ていても手に取る様に分かる。善鬼の情念はどこか屈折した所が有るのに比べ、典膳の情熱は素直であった。元々武士階級の生まれで劣等感などは無かったし、兵法が好きでもあった。その素直な典膳に、善鬼は日々一刀斉一門たる心得を仕込んだから、この世間知らずの若武者も見る間に激烈な実戦主義に染まってきつつあった。彼が後年、小野次郎衛門忠明を名乗ってからの度を越した振る舞いは、この時善鬼によって仕込まれた精神に根が有ると考えられる。
「試合となれば、必ず相手の息の根を止めよ」
善鬼は木刀で稽古を付けながら、典膳に言い聞かせた。
「人間とは油断のならぬものじゃ。たとえ試合に敗れたとて、五体満足で返せば何を言い出すか知れたものではない。自分はこの程度だが、相手は骨を砕かれて暫く寝込んだじゃの、手加減してやったので今も生きておられるだのと平気で言いふらす。そうなってはならぬ故、他流試合を行うとあらば必ずとどめを刺せ。殺さぬまでも腕の一本二本は打ち砕いて二度と太刀など握れぬように念を入れて打ち据えよ」
「は__」
体に傷を付ける事はない、とあしらう様に相手をしてくれた一刀斉とは違い、善鬼の稽古は過酷を極めた。骨を砕くとまでは行かぬが、その組太刀は激しく、一撃で倒れこむほどに打ち据えられるのであった。
「膳鬼殿、今一本お願い致す」
それでも典膳は立ち上がり、善鬼に対して挑んで行く。それはまさに試合を挑むような気迫であった。太刀筋でも気力でも今の典膳では善鬼の敵ではない。しかし、何度強烈に打ち込まれ、板敷きに、地面に這いつくばっても典膳は決して怯むことなく善鬼に向かって行くのであった。
"こ奴__"
善鬼も、典膳と言う若者を見直さなければならない。見た目は線の細い、どちらかと言えばひ弱にも見える典膳のどこにこれほどの気概が秘められているのかと首を傾げるほどであった。
"小癪な"
自分の口に、不思議な微笑が浮かんでいるのを善鬼は気付かない。
"小僧、やりおるわい"
正直小気味良さを覚えながらも、善鬼は内心呟いた。最初、典膳の容貌を見た時にはその繊細な顔立ちにどうせ口だけ、気持ちだけで意地を張っているだけで、少しばかり痛めつけてやれば諦めて戻るであろうと高をくくっていた善鬼だが、本格的な修行に必死で食らいつく典膳の姿に、正直畏怖を覚えつつあった。それはどういった感情であろう。嫉妬があったことは紛れもない事実であろう。しかし、それだけではない。厳しく指導しても音を上げない後輩に対して、先輩は自然と好感を抱くものだ。善鬼が典膳に対して抱く心情は、愛憎綯い交ぜになった、複雑な感情であろう。
善鬼のしごきに耐え、全身に傷を受け、息を切らせながら立ち上がる典膳の姿に、一刀斉もかなり心を動かされたようであった。
世間には、相も変わらず一刀斉に試合を挑む腕自慢の猛者たちが引きも切らない。今では善鬼が彼らの相手をするのが習慣になっていた。彼は相変わらずの殺人剣で挑戦者たちを血祭りに上げ続け、それを目の当たりにした典膳も発奮し、その凄まじい勝ちっぷりに鼓舞されて益々修行に熱を入れるのであった。典膳にとって、目下の所目標としているのは一刀斉よりは善鬼であった。善鬼も正直戸惑っている。今までは師の一刀斉を目標にひたすら追う立場であったのが、今度は追われる立場になったのである。
しかし、一刀斉にとっては今のところ全てが順調に、良循環を起こしていると言って良かろう。
「善鬼殿、今度の試合はそれがしにお譲り願えませぬか」
典膳がこのように懇願するのもそう遅くはなかった。
「そなたにはまだ早いわ」
そう言って諭すのは一刀斉である。
「如何にそなたが腕に自信を付けたとはいえ、他流試合とはそのような物ではない。相手は巷の修羅場を生き抜いた海千山千の世業者ばかり、練習の技がそのまま通用する訳ではないぞよ」
それも善鬼の体面と心情を慮っての配慮だった。この頃の一刀斉には、まだそういった気配りがあった。善鬼も、一刀斉の心遣いが嬉しかった。
一刀斉は典膳の成長を喜んだが、善鬼の立場は複雑である。
"わしは、どうなるのか__"
一人、善鬼は悩む事が多くなった。
"いつになったら、師匠をたおせるのか"
元々、それが目的で一刀斉の弟子として付いて来た筈だった。それがいつの間にか、世間並の和やかな師弟関係になり果てているような気がする。そして、自分自身もまた、この状態に浸っているような気がした。
"このような事では__"
善鬼には分らなかった。
彼は今、幸せであった。師匠の一刀斉には心から感謝していた。貧しい農家の倅に生まれ、村ではその気性を持て余して合戦に参加したが思うような結果を得る事ができず修験道に身を投じた彼が、今や全国の武芸者たちから一目置かれる名士として名を馳せている。全ては師である一刀斉の御蔭だった。
"なればこそ__"
善鬼は、敬愛する師に特別な存在であって欲しかった。一刀斉が彼を門下に組み入れたのは、自分を倒させる為ではなかったのか。自分の技を善鬼に叩き込み、最後には命懸けで雌雄を決して相承の器を試すのではなかったか。もしも己が師に及ばず、斬られるとあらば本望であった。師を斃した暁には自分が一刀斉の後継者を名乗り、その道統を継ぐ。その筈であった。それが、自分を拾い上げてくれた師の恩に報いる唯一の方法であると善鬼は堅く信じていた。
そこに持ってきて、典膳という新参者が入り込んできた。典膳もまた、倒すべき一人であると善鬼は思っている。只、殺すだけなら今でもできる。否、今息の根を止めてしまわねばいずれは己が典膳に敗れ去るかもしれない。典膳の成長には目を見張るものがある。それでも構わない。彼が目指しているのは、この世で唯一絶対の境地であった。まだ典膳が未熟な内に彼を亡き者とするのでは意味がない。彼の誇りが許さなかった。典膳にその器を開花させ、その上で己の手で倒す。善鬼はそう決めていた。典膳が成長するまでは彼を手にかける訳には行かないのだ。
では、善鬼が一刀斉に勝負を挑む事を避けている理由は?
"何を恐れておる、善鬼"
彼が恐れているのは何であろう。師に斬られる事なのか、それとも__善鬼には、己の心が分らなかった。只、説明のつかない何かを自分は恐れているような気がしていた。
彼が恐れているもの__失う事を何よりも恐れているのは、今、この時であった。一刀斉を殺せば、その全ては消えてしまう。それを善鬼は何よりも恐れていた。
善鬼は幸せであった。
彼が恐れているのは、今、この幸せを失う事であった。しかし、本人はそれに気づいてはいない。
"一刻も早う、師に恩返しをせねば"
益々焦りを深める善鬼だった。
「そろそろ、典膳に試合を経験させてみては如何でございましょう」
そう切り出したのは善鬼の方であった。
「そうじゃのう」
厳かに頷きながら、内心安堵する一刀斉であった。
"善鬼め、変わりおったわ"
自負心の強い善鬼が後輩の典膳に試合を譲るなど、以前は考えられない事であった。矢張り、面倒を見ねばならぬ立場になると人間は自然と変わって来るのかも知れない。
「勝てるか?」
「相手にもよりましょう」
一刀斉の疑問に、善鬼は答えた。
「確かに典膳の技の冴えは数段上がっておりますが、奇策を弄する輩にはまだ危ないかと存じます。今度の試合、まず相手を見定めたうえで、それがしが出るか典膳に任せるかを決めまする」
今では師匠に代わって試合を取り仕切る善鬼は、一刀斉にとっても頼もしい存在だった。
「分かった。そちの裁量に任せよう……ごほっ__」
「師匠?」
咳込む一刀斉に、善鬼が声をかけた。
「師匠殿」
「案ずるな、心配ない」
一刀斉は善鬼に答えた。
ここの所、一刀斉は咳込むことが多くなった。典膳が一行に加わってから暫くしての事である。最初は只の風邪かと善鬼も気にはしていなかったが、それが一向に治らないのである。
"どこかお悪いのか"
流石に善鬼も心配になってきた。
「いや、大した事はない。その方らに心配をかけて済まんの」
「いえ__」
善鬼も頭を下げた。
「わが師の事ゆえ心配は致しておりませぬが、万が一師匠に倒れられてはこの善鬼、修行の甲斐が無うなりますゆえ」
「そうであったのう」
一刀斉も微笑を返す。
「そちの目当てはこの一刀斉を討ち果たす事にあったな」
が、その言葉とは裏腹に今の一刀斉には昔日の凄味など残されてはいなかった。
一刀斉に向けた善鬼の労わりの眼差しには、やるせなく物悲しい思いが混じっていた。
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