この度一刀斉一門に試合を挑んできたのはタイ捨流の井原五郎兵衛なる使い手であった。
タイ捨流というのは上泉伊勢守の門人丸目蔵人なる兵法者が編み出した一派であり、考え方次第では丸目派新陰流とも言えなくはない。柳生一門が自らを新陰流と称したり柳生流を名乗ったり、時には柳生新陰流、とも称するのだから、こういう考え方も有りである。柳生派新陰流、丸目派新陰流、疋田派新陰流、等である。話は今少し脱線するが、中国拳法に八卦掌という武術がある。この八卦掌、大きく分けて二つの流派が存在するのだが、以前は龍爪掌派、牛舌掌派と呼んでいたのに最近では程氏、尹氏と言われている。考えうる理由として、程廷家一門が牛舌掌を使わない訳でもないし、尹福の流派でも当然龍爪掌を教えたであろうからと思われる。それに擬えて新陰流もそのように呼んでも余り間違いではあるまい。
このタイ捨流は一応、刀だけではなく素手による無手勝流から様々な武器に至るまで平等に扱う古流の流れを継承してはいるが、流派としての剣術自体は正統派の太刀筋である。只、使い手本人の癖もあることで、この流派を名乗っているから正統派だの異端だのと最初から決めてかからない方が良いだろう。
「もしも、相手が正法の使い手とあらば典膳、そなたに任せよう」
試合の前日、善鬼は典膳に言い聞かせた。
「そちの太刀筋は最早世上の一流剣士と比べてひけは取らぬ。しかし、相手が邪法使いとなれば未だ他流試合の経験は浅いそなたには荷が重かろう」
「はは」
「典膳、そちも稽古では他流との手合せ位はしたかもしれぬが、このような、命を賭けた果たし合いとなると話は全く違ってくる。勝つ為とあらば相手も手段を選ばず何をして来るやも知れぬ。場数の少ないそたなでは普段の力を十分に発揮できぬやもしれぬ」
「承知いたして候」
善鬼の訓辞に、典膳も熱心に耳を傾けている。善鬼と典膳では得意不得意が違う。典膳の太刀筋は誠に見事なもので、剣術に限って言えば既に善鬼とも互角に近い業前を身に着けてはいる。元々剣術家としての修練は積んでいたので刀法の技術は下地が出来ていたのだ。しかし、彼の剣技は余りに素直でまとも過ぎるのである。それに対して善鬼の方は一刀斉に弟子入りするまでは武術などまるで習った事もなく、その代り修験道で培った精神力でどのような場合にも冷静に対処できる胆力を身に付けていたし、何より今では他流試合の経験も豊富にこなしているから、相手が変則の戦術で掛ってきても慌てる事無く対処できるのであった。
要するに、率直な正統派の典膳に対し、ひねくれ者で腹の据わった善鬼という、普段の人柄がそのまま技の個性にも反映されている訳である。
実際、こういった命がけの真剣勝負では相手も何をしてくるやら知れたものではない。死人に口無しの諺通り、相手が如何に卑劣な手段で挑んでこようとも死んでしまっては何をどうする事も出来ないのだ。
年代は少しばかり下るが、柳生但馬守宗矩の弟、柳生十佐衛門宗章にこのような逸話がある。真剣勝負にあたって宗章は、最初から相手の隙を窺って試合が始まる前に斬り殺してしまった。それは卑怯ではないかと訝る見物人に対し、自分は命が掛っているのだ、周りで見ているだけの人間が無責任な事を言わないで頂こう、と答えたらしい。当然、誰もが一言も返す言葉は無かったのである。尤も、彼は柳生一門の血族であり、既に十分な地位を得ている。いわば、反則負けでもなんでも防衛すれば良い訳で、手段を選ばず敵を亡き者としても差し支えないが、逆の立場、名家柳生家に挑戦する者が同じことをやれば当然穏当には済まなかったであろう。正々堂々と刺客を送るような、武芸者として真っ当な手段はまだしも、将軍家兵法指南という立場を利用して相手を非難し、社会的に抹殺するという陰険な方法にでも訴えかねないのだ。人間社会で生活する以上、こちらの方が余程恐ろしいと言わねばなるまい。
「明日の試合、わしが出るにせよそなたに任せるにせよ、いずれ目指すは唯一つぞ」
善鬼の言葉に、典膳は頷いた。
必ず、下手をすれば卑劣な手段に訴えてでも勝つ、具体的には相手の息の根を止める。
他に目的はないのである。
当日。
試合会場となった原野に介添えの者を三名ばかり引き連れ、井原五郎兵衛が姿を現した。
少し遅れて、一刀斉と二人の弟子達が到着した。
「井原五郎兵衛でござる」
見るからに涼やかな容儀の井原が、一刀斉に対して恭しく叩頭して見せた。
「伊藤一刀斉景久と申す__」
初対面の両名は、互いに名乗りを上げて礼を交わした。
「本日は試合を受けて頂き、この井原五郎兵衛、誠に恐悦至極に存ずる」
「いや__」
一刀斉が、判っていながら確認を取るように井原に言い返した。
「試合をお受けするはこの一刀斉に非ず、こちらの__」
「承知いたしており申す」
一刀斉に皆まで言わせず、井原は口を挟んだ。
「まずは、景久殿の前に御高弟の小野善鬼殿と立ち会う、それは重々弁えて居りますれば」
既に、一刀斉に挑戦する為には善鬼と手合せせねばならぬと言う評判は知れ渡っていた。
先程から善鬼は、井原の人を見極めんと必死に目を凝らしている。と言っても目を剥いてジロジロ眺めている訳ではない。井原の容姿、挙動、言動から気配まで、些細な事までも見逃すまいと微に入り細に渡って観察しているのである。
"わしが出るか、典膳を出すか__"
もし相手の見定めを誤れば大変である。うわべだけ行儀が良いからと言って試合まで正々堂々の勝負を仕掛けてくるかは分からないのである。もし、典膳を試合に出して後れを取る事になれば取り返しの付かない事になる。典膳が死ぬくらいなら兎も角、自分も含めた一刀斉一門の恥となるのだから真剣にならざるを得ないのである。無理に典膳に試合をさせずとも、どうしても見極めが着かねば自分が出れば済むだけの事だが。
"どうやら邪法使いではなさそうだが"
善鬼は一刀斉にも目配せで伺ってみた。どうやら師も自分と同じ考えらしい。
"典膳に、やらせてみるか__"
善鬼は踏ん切りが付かない。
傍らでは、典膳が顔を引き締めて控えていた。二人とも手には木刀、鉢巻きにたすき掛けの試合支度のいでたちだった。井原の供の者たちもいざという時に備えて、たすき掛けの用意は同じだった。
「さて__」
善鬼が逡巡している間に、井原が一刀斉から弟子の二人に目線を映した。
「早速試合を行いましょうず。小野善鬼殿は何れの御仁におわしますや?」
善鬼が答えようとすると、典膳が井原に向って口を開いた。
「小野善鬼にござる」
典膳の思わぬ言動に、思わず目を見開いて驚いたのは善鬼である。
「こちらが善鬼殿か、噂に聞いていたのとは随分違う御容貌なので勘違いいたした」
「斯様にひ弱な男とは思われませなんだか」
そのやり取りを、善鬼は呆けたように見守っていた。
「いやいや__」
井原が叶わぬと云う風に首を振った。
「話に聞いた所では善鬼殿は六尺豊かな偉丈夫で、その名の通り、顔付きも鬼のようであると伺っておりました故__」
と言いつつ、井原は善鬼の方を向いた。
「こちらの御仁かと思いこんで居り申した」
「いいえ__」
最初は緊張に顔を強張らせていた典膳も、このやり取りの間に開き直ったらしく、余裕をもって答えた。
「拙者こそが紛う事なき小野善鬼にござる」
善鬼は一刀斉の方に向き直り、指示を仰ぐような目で師匠を見た。
やらせてみよ__一刀斉の目はそう言っていた。
「されば__」
門人と思しき介添えの若者から受け取ったたすきで着物を締め、木刀を渡された井原は典膳の前に罷り出た。
「善鬼殿、尋常に勝負と参ろうや」
「承知__」
井原が典膳に相対した。
善鬼があれよあれよと見守る中で、試合が始まってしまった。
井原は木刀を中段正眼に構えた。典膳は一刀流の基本である、地摺りの青眼。
典膳は静かに呼吸を整えている。
両者、間合いを計っているようである。どちらが相手を己の間合いに取り込むか、それが勝負の行方を左右する。修験者上がりの善鬼はその気合いでもって相手を押し退ける様に自らの間合いをねじ込ませるが、師の一刀斉は静かに忍び寄るように取り込んで行く。初めて一刀斉と刃を交えた__真剣を手にしていたのは典膳だけだったが__時、典膳はまるでその姿を捉えることが出来なかった。善鬼との組太刀稽古では、その凄まじい気合いに押しまくられ、手を出すことも叶わぬ典膳だった。
そのいずれと比しても、目の前の井原は組みし易い相手である。
典膳は前に出た。気配を殺して静かに、まるで忍び寄るように井原に接近する。その姿は目の前に在りながら、殆ど手応えのない典膳に井原は戸惑っていた。
一刀斉も善鬼も、そして井原の門人たちも固唾をのんでこの試合を見守っていた。
もう、互いの太刀が届く寸前まで距離が狭まっている。井原は奇妙な感覚に捕われていた。理性では既に敵がすぐ近くまで接近していることは承知している。しかし、まるでその実感が湧かないのである。まるで、目の前に立っている相手が蜃気楼か何かのように感じられ、まともに目付ができないのだった。そして__
典膳が静かに間合いを詰めた。
木刀を掲げて太刀打ちの動作を思わせた。
その瞬間。
典膳は井原とすれ違う様に動いた。その時には、井原がその場に倒れていた。蹲った時には頭から血を流し、既に致命傷を受けていた。まだ息はあったが、恐らく手遅れである。すぐに手当てを施しても一命を取り留めることはかなうまい。
その場の一同、井原の弟子たち、一刀斉、そして善鬼も息を吞んで硬直していた。
顔色一つ変えず井原を見下ろしていた典膳は、まるでとどめを刺した事を確認したかのように一つ頷くと、一同に涼やかな表情を向けた。
その姿を目の当たりにした善鬼に、幽かな戦慄が走った。
善鬼は、昨日の試合を思い起こし、改めて神子上典膳という若者を見直していた。勿論素直に手放しで喜んだわけではなく、寧ろ警戒心を強めたといっても間違いではない。
三太刀だった。
典膳が井原に加えた手数は三発。善鬼にはそう見えた。まず、井原の拳に一太刀。二太刀目は背中、これは撃ち損じのようだった。そして最後の三撃目、これが致命打となった。頭蓋骨に切り裂くような鋭い一太刀、これで井原は完全にとどめを刺されたのである。その剣技は、流れるように滞りなく自然であった。単に動作の事を称してではない。如何に試合とはいえ、普通なら生身の人間相手にあれほど躊躇無く、無心に太刀を打ち込める訳ではない。しかし、典膳は些かの気遅れも無くやってのけた。まるで立ち木に打ち込みを加える様に、顔色一つ変えず全く気負う事もなく井原を打ち据えた。実戦では極限状態にあって練習では出来ない様な離れ業を発揮することもあるが、典膳が見せたのはそういう事ではなく、飽くまで自然に、普通に相手を討ち果たしたのであった。
悪刀善鬼と恐れられた彼ですら、典膳の非情さに僅かな畏怖を覚えたほどであった。
「典膳よ__」
試合の後、典膳は一刀斉に窘められた。
「初めての試合で良うやった、と褒めてやりたい所だが__」
「心得ております、師匠」
典膳は悪びれることもなく頭を下げた。
「身どもの軽率な振舞い、最早申し開く事とてございません。如何様にもお叱りは覚悟致しております」
「その言葉……ごほっ__」
「師匠?」
「案ずるな、いつもの空咳じゃ__」
案ずるなと言われても矢張り心配せざるを得ない。典膳も、同席した善鬼も一刀斉の身を気遣い眉をひそめた。
一刀斉の事も気にはなるが、普段通りに振舞う典膳を、善鬼は複雑な眼差しで窺っていた。まさに観察であった。初めて人を手に掛けた時には善鬼も心が平静ではいられなかった。しかし、典膳は些かの気負いも昂りもなく、普段と変わらぬ素振りであった。或いは、典膳が人を殺したのは初めてではないのかも知れない。
「どうじゃ、善鬼」
一刀斉が善鬼に質した。前日の、善鬼の指示を待たずに勝手に行動した件について、一刀斉は当人に意見を求めたのである。
「それがしに、別段申し上げることは御座いませぬ」
善鬼は素っ気無く答えるのみであった。
「われら門人の仕置については全て師匠の御一存に委ねておりますれば、典膳と同じ門弟のそれがしに言うべき事とて無いものと心得ております」
「左様か」
一刀斉も、善鬼の内に湧き起こった新たなる典膳への情念を察知してはいた。
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