「氏井、さま?」
綾音が、夢見るような瞳で言った。
「弥四郎で構いまへん」
「ああ」
弥四郎の一言に、綾音が明るく笑いだした。
「んじゃ、これから弥四郎って呼ぶからね」
馴れ馴れしくもゴスンの口をきいて、綾音が弥四郎に笑いかけた。
「弥四郎も、あたしの事も綾音って、呼び捨てでいいから、これからもよろしくね」
"これからも?"
勝手に話を進める綾音に、弥四郎も不安の色を隠せない。
「ねえ」
弥四郎の脇を歩きながら、すっかり道連れ気分の綾音がこちらを覗きこむように言った。
「弥四郎は、これからどこへ行くの?」
「別に」
空を仰いで弥四郎は答えた。
「とりあえず当てはあらへんな。言うてみたら兵法修行の為の旅て事になるかな」
「兵法?弥四郎って兵法者なの?」
「そうや」
「へえー__」
先程の見事の奮戦ぶりを思い出したのか、人差し指を一本立てながら視線を上に向けながら何事かを考えているようだった。
「それから」
今一度、綾音が弥四郎に振り向いた。
「弥四郎って、上方の人?」
「まあな」
これだけ露骨に関西弁で喋りまくれば誰にでも分かるだろう。
「どこの生まれ?京?堺?」
「いや__」
弥四郎はのほほんと答えた。
「大和国や」
「大和?」
「そう、大和。柳生庄で生まれ育った」
「ええー?!」
弥四郎の答えに、綾音が突拍子もない声を上げた。
「柳生!?」
綾音が目を丸くして弥四郎に聞き返した。
「う、うん……」
またしても何か綾音の気に障るような事を言ったかと、内心ビビりながら弥四郎は、済まなそうに答えた。
「それじゃ、それじゃ__」
手足をバタバタさせながら、居ても立っても居られないと言ったように綾音が弥四郎に畳み掛けるような勢いで問い返した。
「十兵衛様と会った事、ある?」
「十兵衛様?」
綾音が何を言わんとするのかが分からぬ弥四郎は、きょとんとした面持ちで今いがた彼女が口にした言葉を鸚鵡返しに繰り返した。
「十兵衛様よ、十兵衛様」
またしても件の単語を繰り返し口にする綾音を、弥四郎は用心深く観察するように見返していた。
「十兵衛様て、どこの十兵衛様や」
「んもお__」
如何にもじれったそうに、顔を激しく左右に振った綾音が両の拳を握り締め、矢も楯もという按配で無邪気にまくし立てる。
「十兵衛様は十兵衛様よ!」
取り乱しながら同じ単語を繰り返す綾音を眺める冷やかな態度から察するに、どうやら弥四郎には彼女の言わんとする、謎の"十兵衛様"の意味は充分理解できている模様である。
「ジュウベエ様ねえ……」
しかし、そらっとぼけながら弥四郎は白々しく首を捻った。
「ああ、そうか__」
ワザとらしく、両の手をポンと打つ弥四郎であった。
「分かった、十兵衛様て、あの十兵衛様か」
期待に瞳を輝かせながら、綾音が弥四郎の言葉を待ちわびていた。
「アレやろ、アレ、惟任日向守明智十兵衛光秀!」
本気で期待していた綾音は、弥四郎の間の悪い冗談にずっこけた。
「アンタねええ__」
ゴゴゴゴゴゴー、と背後から炎を吹き上げながら、綾音が弥四郎に迫る。まあまあ、と言うように弥四郎が両手を軽く振って見せた。
「違いましたか?」
「あったり前でしょ!」
両腕を組んでソッポを向いた綾音に、流石の弥四郎も幾分済まなそうな顔で応じた。
「あたしの十兵衛様が明智光秀のワケないでしょ!第一、死んでるじゃない、明智日向守って」
「生きてるて噂やで」
「天海って、お坊さんのこと?」
慈眼大師こと南光坊天海__後世の歴史家に"徳川のラスプーチン"と呼ばれたこの怪僧は、その出自から何から謎に包まれており、それだけに人々の興味を掻き立てるものがあるらしく、世間ではこの人物について様々な憶測を交わしている。その一つに、この怪僧ラスプーチンの正体が国際プロレスに来日したヨーロッパ出身のワイルド・アンガス__ではなく、実は明智光秀だという荒唐無稽な噂は既に在世当時から天下に流れていた。
「だから!」
綾音が眉根を吊り上げて弥四郎に食って掛かった。
「あたしが言ってるのは……」
「会うた事あるで」
「え?」
綾音の呼吸を読んで、気をそらすように弥四郎が何気なく言った。
「俺、会うた事ある」
「うっそー!?」
綾音が両手で顔を押えながらムンクの叫びのように身悶えし、またまたその態度を急展開させた。
「ただなあ、あの坊さんが明智光秀かどうかまでは……」
「違うわよ!」
おちょくられた綾音が、再び声を荒げた。
「誰がラスプーチンの話をしとるかあ!」
「違ゃうん?」
「ちゃう、ちゃーう!」
「分かった、天海と違ょおて十兵衛様やったな。それで、明智十兵衛光秀様やけど……」
「違―うー!」
どこまでも引きずる弥四郎に綾音も半分狂乱しかけていた。流石に弥四郎も幾分申し訳なさそうに綾音を見返すのであった。
「十兵衛様って言ったら十兵衛様よ!」
「だから、どこの十兵衛様やっちゅうてんねん」
正直、綾音の意中の人の名前を既に、さらに言えば最初から分かっていながら弥四郎は白々しくとぼけるのであった。
「だから!」
それに対して、綾音は気力の限界を振り絞って対抗した。最早これ以上の不毛な上げ足の取り合いに終止符を打つべく、綾音は断固として言い切った。
「決まってるでしょう、十兵衛様って言ったら十兵衛様よ!柳生十兵衛三厳様!」
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