2007年12月27日木曜日

はぐれ弥四郎流れ旅    ~第二章~  巻之壱


 


 


 

「あーん、待ってよ、弥四郎」

「何やっとんねん、早よせんかい」

東海道はどこまでも続く。弥四郎と綾音の道中も始まったばかり。

「もう、弥四郎ったらあ。少しくらい待ってくれてもいいじゃない!」

「アホ」

手甲脚絆に杖をついた、如何にも旅支度に身を固めた武家の子女という格好の綾音を、これまた編み笠に羽織の道中姿の弥四郎が冷ややかに見降ろしていた。

「お前、食い過ぎなんじゃ」

「だってえ__」

つっけんどんに言い捨てる弥四郎を、綾音が恨みがましく睨み返す。

「仕方ないでしょ、お腹すいてるんだもん」

途中、茶店で一服した二人は団子を頼んで腹ごしらえをした。それは良いのだが、また綾音が食べる食べる、その豪快な食いっぷりに弥四郎の方が食欲も失せてしまうほどの勢いだった。

「人のおごりやと思て無遠慮に食いくさって」

「いーじゃない、男なんだから。ケチケチしてるともてないわよ」

「ふん__」

「それに、あたし朝ごはん食べてないんだから。少しくらい奮発してくれてもいいでしょ?」

「はあはあ__」

ワザとらしく目を細めながら弥四郎が頷いた。

「欠食児童に食いモン施すのも功徳やからのう。まあ仕方あらへんわ」

「なによ!」

腹にもたれた団子も大分消化してきたのか、勢いよく弥四郎に食い下がる綾音だった。

「弥四郎のケチンボ!」

「上方モンはシブチンでのう」

二人が同時にべーっとばかりに舌を出して、互いに相手を牽制し合う。

「アホなことしとる暇あらへん」

弥四郎が綾音を無視するように、再び東海道の幹線を歩き出した。

「早よ保土ヶ谷宿に着かにゃ、日イ暮れてまうがな」

「あーん、待ってよ__」

太陽はまだ高いとは言え時刻は昼過ぎ午の刻、いや、未に近い。日が西に傾きつつあった。

「そんなに急がなくても大丈夫でしょ?」

確かにその通りだが、そんな綾音を無視して弥四郎はズカズカ足を進める。

「もー、弥四郎のバカあ、人でなしィ!」

言いながらも置いていかれては堪らないとばかりに弥四郎の後を追う健気な綾音だった。

そんな二人の行く先に現れたのは、黒山の人だかり。

「なんじゃい?」

「なあに?」

弥四郎も綾音も足を留めた。

野次馬に囲まれて対峙しているのは二人の男だった。

2007年12月23日日曜日

はぐれ弥四郎流れ旅    ~第一章~  巻之六


 


 


 

「何か目的でも有るの、弥四郎には?」

「有るな__」

弥四郎は、きっぱりと言い切った。

「俺が修行の旅に出たのは__確かに腕を磨いて己の武芸を向上させる事、それが一つやけど、それも最終的な目的の為の過程と言えるな」

「何よ、その目的って」

「それは__」

弥四郎が、遠い眼を空に向けた。

「有る人との約束の為や」

「約束?」

「そうや」

弥四郎が、何かを思い出すかのように視線を虚空に放った。

「試合の約束や」

「試合?」

「そう__」

綾音の言葉に頷くように、弥四郎が空に向けていた顔を下に降ろした。

「あれは、俺がまだ、五、六才位やったかなあ、その人が俺の住んでる大和の国へ立ち寄ったんや。強かった。その人の強さに、俺はガキながら戦慄を覚えた。その時、俺は約束したんや。俺が大人になって、一人前の兵法者になったら、試合を受けて欲しいてな」

意外に純真な弥四郎の思い出話に、綾音も素直に聞き入っているようであった。

「勿論、子供の言う事や。多分その人は俺の事なんか憶えてはれへんやろう。せやけど、俺にとっては生涯を決定するほどの約束やったんや。俺の祖父も兵法者でな、それで自分も一流の武芸者になるて決めとったんやけど、その人との試合を目標に、俺は今日まで修業に明け暮れ、ひたすら己を磨いてきたつもりや」

「へえ__」

何やら、思わぬ美談に綾音もついつい聞き入ってしまっている様子である。

「それで、さ__」

綾音が遠慮気味に口を挟んだ。

「その、弥四郎が約束した人って、なんていう人?」

「その人の名前は__」

今一度、弥四郎が天を仰いで言った。

「新免宮本武蔵玄信殿や」

弥四郎は、あらん限りの想いを込めてその名を口にした。

綾音は無言であった。

暫し、意味不明の沈黙がそこに漂っていた。

「なんじゃい?」

綾音が、伸びあがって弥四郎の額に掌を当てていた。どうやら熱を計っているらしい。

「一体なにやっとんねん」

「アンタねえ__」

綾音が呆れたように言った。

「相手が誰だか分かってんの?宮本武蔵よ、宮本武蔵!」

心底どうしようもないという口調で、綾音が言った。

「武蔵って言ったらあれでしょ、やっぱり、あの宮本武蔵」

「当り前じゃ」

弥四郎が言った。

「宮本武蔵ちゅうたら他にどの武蔵殿が居るねん」

宮本武蔵には複数説がある。彼は武術でも剣術から杖術、鎖鎌に無手勝流など多数の流派を残している上、兵法のみならず書画や彫刻、絵画などで多岐に渡る才能を発揮している為、それぞれの分野での名人が宮本武蔵を名乗って御互いの宣伝に使ったというのである。

「アンタねえ__」

今一度、綾音が弥四郎に言った。

「相手が誰だか分かって言ってんの?」

「当然」

弥四郎も、綾音に負けじと踏ん反り返って答える。

「宮本武蔵でしょ?あんたなんかが敵うワケないじゃない!アタマおかしいんじゃない?」

「そらそうかも知れん」

弥四郎も、否定はしなかった。

「あの宮本武蔵なんでしょ?弥四郎なんかが束になって掛って行っても勝てる筈ないでしょ」

「そらまあ__」

答える弥四郎の声が低くなっている。確かに否定はしないが、流石にここまで言い切られると余り気分の良いものではないようだ。

「よしなさいって、幾らなんでも相手が強過ぎるわよ。宮本武蔵って言ったら、五十回以上試合して負けた事無いんでしょ?室町将軍兵法指南役とか、細川家の佐々木小次郎なんかに勝った、日本一の剣客なんでしょ?弥四郎が幾ら腕に自信があるって言っても、武蔵に勝てる道理なんてないわよ!」

弥四郎を止める綾音の口調が、厭に熱を帯び始めている。

「今の日本で、宮本武蔵に勝てる武芸者って言ったら一人しかいないわよ」

「誰や?」

「決まってるでしょう」

綾音は、胸を張って、自信を持って言い切った。

「あたしの十兵衛様よ!」

またしてもそれか、と言うように、弥四郎がゲンナリと肩を落とした。

「綾音は?」

「え?」

弥四郎の質問に、綾音が不思議そうな顔を見せた。

「綾音は、なんでこないな所に居るんかいな」

聞きながらも、正直弥四郎も及び腰である。何せ先程、言い方は幾分ぞんざいであったものの当人の身を案じて言った言葉に激怒しただけに、このような質問に対してまたも癇癪を起しはしないかと心配な弥四郎であった。

「__」

綾音は言葉に詰まった。

矢張り、あまり聞かれたくないらしい。

「あ、言いとう無かったら無理に言わんでも……」

「んー」

うつむく様におとがいを引いて、綾音は考え込んでいる。

「言いたくない」

弥四郎の方に向き直ると、努めて明るく綾音は答えた。

「だから言わない」

それだけ言うと、弾む様な足取りで駆け出した綾音は、元気にこちらを振り向いた。

「ほら、弥四郎、早く早く!さっさと来ないと置いてくわよ」

「はははは__」

こうなると弥四郎も、力無く笑うしかなかった。

二人が進み行く東海道に、風が吹いている。

空はどこまでも青かった。


 

2007年12月10日月曜日

はぐれ弥四郎流れ旅    ~第一章~  巻之五


 


 


 

「弥四郎、兵法者って言ってたわよね」

「言うたぞ」

綾音の質問に、堂々と答える弥四郎であった。

「やっぱり、武者修行の旅してるわけ?」

「それ以外に何が有るねん」

「じゃあ、ずっと上方の方に居たの?」

「いや__」

弥四郎がふっと空を仰ぎながら言った。

「ついこの間まで江戸に居った」

「江戸?」

「うん」

意外な答えに、綾音が目を見開いた。

「何、旅の途中で江戸に寄ってたわけ?」

「いや、そうや無うてな」

弥四郎が綾音の方を振り向きながら言った。

「江戸に住んどったんや」

「うっそー?!」

その、丸出しの上方訛りから近々まで彼が機内に住んでいたとばかり思い込んでいた綾音は、弥四郎の言葉に頓狂な声を上げた。

「かなり永い事居ったでえ。六,七年は住んどったかいな」

「なんで?」

「なんで、とは?」

「なんでそんなに永い事江戸に暮らしてるのに、上方言葉が治らない訳?」

「厭な言い方すんな」

弥四郎は、その種の考え方に対し恐らく関西人が時代を超えて等しく抱くであろう極々平均的な感想を口にした。

「上方の人間が、なんでわざわざ江戸の田舎言葉なんぞに合わせなあかんねん。五畿内は太閤殿下の時代から、更にその前から京の天子様もおわす日本の中心やないけ」

踏ん反り返って関西人の誇りを口にする弥四郎に、綾音は何となく親しみを深めた様な想いだった。

「せやけど、一応武家言葉位は喋れるけどな」

「へえ」

「意外におわしますや?」

言った途端に取って付けた様な武家言葉を口にする弥四郎であった。

「拙者とて武士の端くれ、御城内に在っては宮仕えの身に候えば、些かなりとも武家のたしなみは心得て御座る」

「御城内?」

弥四郎の言った、思わぬ不用意な一言に綾音が耳ざとく反応した。

「御城内って、まさか……」

「ああ__」

しくじった、と言うように弥四郎がそっぽを向いた。

「まあな__」

ここでその話題を打ち切りたいという内心を、相手にも分からせようと露骨に態度に表わす弥四郎だったが、綾音は容赦しなかった。そんな綾音の目線に抗しきれず、弥四郎は仕方なく言葉を継いだ。

「江戸城で勤番やってたんや」

「ええー!?」

またまた綾音がけたたましく声を上げた。道行く旅人が、何事かと振り向くほどの声音だった。

「弥四郎って、御旗本だったの?」

「ん、まあ__」

弥四郎が、曖昧に言葉を濁した。

「親父が直参でな。それで俺も一応登城して色々__」

「へえー__」

綾音が目の色を変えて弥四郎を見返した。

「弥四郎って、凄いんだ、意外と」

「何が」

「だって、天下の御直参でしょ」

そう言うと、弥四郎が鼻で笑った。

「要するに毎日毎日登城して、日がな一日無意味な役所勤めして、それだけで無駄飯頂戴しとるんやから、直参言うんは結構な商売やで」

「んもう」

綾音が、またしても機嫌を損ねて唇を尖らせた。

「何よ、折角褒めてあげてんのにイ__」

「褒めるてなあ」

弥四郎も嫌そうな顔で言った。

「そないな肩書褒められてもちっとも嬉しうないわ」

「弥四郎のへそ曲がりイ」

「ふん」

綾音に負けじと、弥四郎も口元を歪めて対抗する。

「実際、城勤めて、何やっとった思う?」

「知らないわよォ、そんな事」

「何百石たら言う旗本が、日がな一日詰めの間で時間だけ潰して、刻限になったら将軍の御膳運んだりなんやで、ろくな仕事もせんと目の玉飛び出るほどの俸禄取りくさるねんから、ホンマ何考えとるねん、全く」

「へえ__」

普段考えたことも無い話だけに、綾音もただ弥四郎の言葉に相槌を打つだけであった。

「わしも、別にやる事言うたら何とてないのに時間だけ潰して終わり。ろくろく武術の稽古もでけへんかったわ」

「そう言えば、弥四郎って兵法者だって言ってたわよね」

先程口にした言葉を、今一度繰り返す綾音であった。

「そうや」

「武者修行の旅だって言ってたわよね」

「はいはい」

「じゃあ、特別に目的なんてないよね?」

「うーん……」

綾音の言葉に、弥四郎が首をひねった。

「何、なんか目的有るの?」

「まあ、有るというたら……」

妙に意味有り気に、勿体つける弥四郎であった。

「自分を鍛える事?」

「ま、それはそうやけどな」

弥四郎が、更に意味深な態度で言った。


 

2007年11月30日金曜日

はぐれ弥四郎流れ旅    ~第一章~  巻之四


 


 


 

「へえー__」

既に相手の言わんとする所を察していた弥四郎は、乾いた眼差しで綾音を見返した。

「そういや、そんなんも居ったなあ__」

何とも冷めた口調の弥四郎に、綾音が熱い想いをぶつけながら問い詰めた。

「まあ、名前くらいやったら聞いたこと有るけどな」

「ねえ、会った事無いの?」

如何にも底意地の悪い弥四郎の態度に臆する事無く、重ねて問いかける綾音だった。

「さあねえ__」

そっぽを向きながら、白々しく答える弥四郎の冷たい波動を、綾音も感じてはいる。だが、そのくらいの事で引き下がるような綾音ではなかった。相手がどんなにこちらを軽んじようと蔑もうと断固として好きなモノは好き、絶対に節を曲げない腐女子のオーラを全身から迸らせ、弥四郎の冷たい視線に対抗する綾音の態度は追っかけの鑑と言うべき天晴れな姿だった。

「会うた事はないなあ」

益々わざとらしい口調で、弥四郎が呟いた。

少なくとも嘘は言っていない。彼が柳生十兵衛と会う事など出来る筈が無いのだから。

「何よお__」

綾音が口をへの字に曲げて言った。

「アンタも柳生で生まれたんでしょう?」

「まあ、名前くらいやったら聞いた事有るけどな」

「ンもう!」

綾音が面白くなさそうにふくれっ面を見せた。

「何よ、おんなじ柳生に住んでたのにい!領主様の御嫡男と会った事すら無いの?」

「残念ながら__」

ここまで来て尚、抜け抜けと白を切り通す弥四郎の猿芝居に、綾音は全く気付いていない模様である。それもどうやら素の態度らしく、意地の悪い弥四郎に対し、こちらも更に底意地悪く騙されたふりをしてやりかえそうなどと言う、もって回った意図は残念ながら無さそうだ。惜しむらくはそれも致し方ない。何せ、彼女にはその為の(?)特別な理由が存在したのだから。

「それでなあ」

弥四郎が言った。

「アンタ、さっきから十兵衛様十兵衛様て、その十兵衛様の顔、知っとるんかい?」

「トーゼンよ!」

弥四郎に向って、綾音は確信を持って言い切った。当の弥四郎はと言えば、事の成り行きにただ茫然となるばかりだった。

「誰でも知ってるわよォ!刀の鍔で片目を隠した、隻眼の剣士十兵衛様。有名じゃない!」

弥四郎は最早返す言葉すら失って立ち尽くすのみであった。

「幕府大目付の御父上、柳生但馬守宗矩様の命を受け、公儀隠密として諸国を流離う柳生十兵衛三厳様!ああ、わたしの十兵衛様あ」

盛り上がりに盛り上がり、既にいっちゃってる目つきの綾音をよそに、弥四郎はいよいよ白けた眼差し。

「__それで」

何とか、と言う風情で弥四郎が口を開いた。

「その隠密剣士の十兵衛様は、なんでわざわざ片目を隠してはんねん?」

「知らないのお?」

弥四郎のすすけた視線を跳ね返さんとするかのように、バッカねえ、と言いたげな表情で綾音が声を励ました。

「子供の頃、修業に明け暮れる十兵衛様を鍛えようと、御父上の但馬様が稽古の最中の十兵衛様に、飛礫を投げつけたのよ。流石の十兵衛様もその小石を避け切れず、片目を失ったの!」

弥四郎は更に白けの度合いを深めると、呆れた様な表情で一言も発する事は無かった。

「……それはな」

漸く、何とか持ち直したというように弥四郎が口を開いた。

「その__柳生十兵衛が子供の時、刀の鍔で片目を隠して稽古してた事があった」

弥四郎が、何を言い出すのかが分からずに、綾音がきょとんとした表情でこちらを見た。

「なんで?」

綾音が自然に聞き返した。

「兵法では、一眼二足三胆四力て言われるからな。それで片目を隠しながら木刀を振って、平衡感覚を研いてた訳や。そこに__」

不意に、妙に凄んだ様に弥四郎が声を潜めた。

「あのクソ親父が__柳生宗矩が小石投げくさった。目え隠した方からな」

忌々しそうに語る弥四郎を、綾音が不思議そうに見守っていた。

「当然、目エ隠してるから簡単に当たったわ」

息を詰めた様に、力を込めて弥四郎は言った。

「あの時の、あの親父の後姿__」

生々しい実感を漲らせて語る弥四郎に、流石の綾音も戸惑いを隠せない。

「__まあ、多分この時の話が妙な噂になったんとちゃうやろか」

「……あんた」

綾音が当惑しながら言った。

「……妙に実感籠ってない?」

「ほうか?」

またしても白々しくとぼけながら、弥四郎が綾音に答えた。

「__なんか、見てきたように言うじゃない」

「いやあ」

綾音から目線を外し、堂々と開き直る弥四郎であった。

「別にい、見た訳や無いけどな」

これまた嘘は言っていない。少なくとも、彼がその時の柳生十兵衛の姿を見ている訳はないのだから。

何やら不思議と淀んだ空気が二人の間に蟠っていた。


 


 

2007年11月26日月曜日

はぐれ弥四郎流れ旅    ~第一章~  巻之参


 


 


 

「氏井、さま?」

綾音が、夢見るような瞳で言った。

「弥四郎で構いまへん」

「ああ」

弥四郎の一言に、綾音が明るく笑いだした。

「んじゃ、これから弥四郎って呼ぶからね」

馴れ馴れしくもゴスンの口をきいて、綾音が弥四郎に笑いかけた。

「弥四郎も、あたしの事も綾音って、呼び捨てでいいから、これからもよろしくね」

"これからも?"

勝手に話を進める綾音に、弥四郎も不安の色を隠せない。

「ねえ」

弥四郎の脇を歩きながら、すっかり道連れ気分の綾音がこちらを覗きこむように言った。

「弥四郎は、これからどこへ行くの?」

「別に」

空を仰いで弥四郎は答えた。

「とりあえず当てはあらへんな。言うてみたら兵法修行の為の旅て事になるかな」

「兵法?弥四郎って兵法者なの?」

「そうや」

「へえー__」

先程の見事の奮戦ぶりを思い出したのか、人差し指を一本立てながら視線を上に向けながら何事かを考えているようだった。

「それから」

今一度、綾音が弥四郎に振り向いた。

「弥四郎って、上方の人?」

「まあな」

これだけ露骨に関西弁で喋りまくれば誰にでも分かるだろう。

「どこの生まれ?京?堺?」

「いや__」

弥四郎はのほほんと答えた。

「大和国や」

「大和?」

「そう、大和。柳生庄で生まれ育った」

「ええー?!」

弥四郎の答えに、綾音が突拍子もない声を上げた。

「柳生!?」

綾音が目を丸くして弥四郎に聞き返した。

「う、うん……」

またしても何か綾音の気に障るような事を言ったかと、内心ビビりながら弥四郎は、済まなそうに答えた。

「それじゃ、それじゃ__」

手足をバタバタさせながら、居ても立っても居られないと言ったように綾音が弥四郎に畳み掛けるような勢いで問い返した。

「十兵衛様と会った事、ある?」

「十兵衛様?」

綾音が何を言わんとするのかが分からぬ弥四郎は、きょとんとした面持ちで今いがた彼女が口にした言葉を鸚鵡返しに繰り返した。

「十兵衛様よ、十兵衛様」

またしても件の単語を繰り返し口にする綾音を、弥四郎は用心深く観察するように見返していた。

「十兵衛様て、どこの十兵衛様や」

「んもお__」

如何にもじれったそうに、顔を激しく左右に振った綾音が両の拳を握り締め、矢も楯もという按配で無邪気にまくし立てる。

「十兵衛様は十兵衛様よ!」

取り乱しながら同じ単語を繰り返す綾音を眺める冷やかな態度から察するに、どうやら弥四郎には彼女の言わんとする、謎の"十兵衛様"の意味は充分理解できている模様である。

「ジュウベエ様ねえ……」

しかし、そらっとぼけながら弥四郎は白々しく首を捻った。

「ああ、そうか__」

ワザとらしく、両の手をポンと打つ弥四郎であった。

「分かった、十兵衛様て、あの十兵衛様か」

期待に瞳を輝かせながら、綾音が弥四郎の言葉を待ちわびていた。

「アレやろ、アレ、惟任日向守明智十兵衛光秀!」

本気で期待していた綾音は、弥四郎の間の悪い冗談にずっこけた。

「アンタねええ__」

ゴゴゴゴゴゴー、と背後から炎を吹き上げながら、綾音が弥四郎に迫る。まあまあ、と言うように弥四郎が両手を軽く振って見せた。

「違いましたか?」

「あったり前でしょ!」

両腕を組んでソッポを向いた綾音に、流石の弥四郎も幾分済まなそうな顔で応じた。

「あたしの十兵衛様が明智光秀のワケないでしょ!第一、死んでるじゃない、明智日向守って」

「生きてるて噂やで」

「天海って、お坊さんのこと?」

慈眼大師こと南光坊天海__後世の歴史家に"徳川のラスプーチン"と呼ばれたこの怪僧は、その出自から何から謎に包まれており、それだけに人々の興味を掻き立てるものがあるらしく、世間ではこの人物について様々な憶測を交わしている。その一つに、この怪僧ラスプーチンの正体が国際プロレスに来日したヨーロッパ出身のワイルド・アンガス__ではなく、実は明智光秀だという荒唐無稽な噂は既に在世当時から天下に流れていた。

「だから!」

綾音が眉根を吊り上げて弥四郎に食って掛かった。

「あたしが言ってるのは……」

「会うた事あるで」

「え?」

綾音の呼吸を読んで、気をそらすように弥四郎が何気なく言った。

「俺、会うた事ある」

「うっそー!?」

綾音が両手で顔を押えながらムンクの叫びのように身悶えし、またまたその態度を急展開させた。

「ただなあ、あの坊さんが明智光秀かどうかまでは……」

「違うわよ!」

おちょくられた綾音が、再び声を荒げた。

「誰がラスプーチンの話をしとるかあ!」

「違ゃうん?」

「ちゃう、ちゃーう!」

「分かった、天海と違ょおて十兵衛様やったな。それで、明智十兵衛光秀様やけど……」

「違―うー!」

どこまでも引きずる弥四郎に綾音も半分狂乱しかけていた。流石に弥四郎も幾分申し訳なさそうに綾音を見返すのであった。

「十兵衛様って言ったら十兵衛様よ!」

「だから、どこの十兵衛様やっちゅうてんねん」

正直、綾音の意中の人の名前を既に、さらに言えば最初から分かっていながら弥四郎は白々しくとぼけるのであった。

「だから!」

それに対して、綾音は気力の限界を振り絞って対抗した。最早これ以上の不毛な上げ足の取り合いに終止符を打つべく、綾音は断固として言い切った。

「決まってるでしょう、十兵衛様って言ったら十兵衛様よ!柳生十兵衛三厳様!」


 


 

2007年11月25日日曜日

はぐれ弥四郎流れ旅    ~第一章~  巻之弐


 


 


 

「あ、あの__」

若武者の後ろから声をかけた者があった。

振り向くとそこに立っていたのは、今しがた浪人達に取り囲まれて難儀していたあの娘であった。

「どうも、先程は__」

感に堪えぬといった様子で、精一杯の感謝の意を表すように娘は頭を下げた。

「誠に、何とお礼を申し上げて良いものやら……」

「帰れ」

「__」

健気に瞳を輝かせて甲斐甲斐しくも礼を述べる娘に対し、若武者は素気なく言うのみであった。

「若い娘がこないな所で一人ウロウロしてたらあないな目に遭うて当然やろが。さっさと帰らんかい。親御さんが心配してはるぞ」

「なによ!」

上方訛り丸出しで無情に言い放つ若武者に対し、娘は密やかな期待を裏切られたような気分で肩をいからせて言い返した。

「折角こうしてお礼言いに来てんのに、その言い草は一体どういうつもり?」

「あのな__」

娘の言葉に、呆れたように若武者は言い返した。

「それが危ない所を助けてくれた恩人に対する言い草か?」

「っるさい!」

娘が頭に来たというように声を荒げた。

「何が恩人よ!誰もアンタに助けてくれなんて頼んでないわよ!何さ、エラそうに、恩着せがましいったらありゃしない!」

「……」

若武者も、娘のあまりの逆ギレに言葉を失ったようである。

「人がわざわざお礼言いに来てやったのに、なによ、その態度は!」

指紋が見えるくらい人差し指をビシッと突きつけて、娘は言い放った。

「あの__」

「なにさ!」

若武者が何かを言おうとしても、娘は頭から受け付けず、弁明の機会すら与えようとはしない。

「なんか文句でもあるワケ?!」

「いや__」

いきり立つ娘に対し、若武者は最早何一つ抗弁することは不可能かと思われた。こうなったら仕方がない、斯様な事態に在っては男の為すべき事はただ一つしかない。

「どうも、エライ済んまへんでした」

若武者は素直に頭を下げた。

「分かりゃいいのよ、分かりゃ」

叩頭した若武者に対し、娘は踏ん反り返って頷いた。

「なによォ、分かってんじゃない、アンタだってえ。全くウ、素直じゃないんだからホントにもォ」

天下太平の笑顔で肩を叩いてくる娘に対し若武者は、はあー、と力無く溜息を吐いた。

「それで__」

若武者は言った。

「もう堪忍してくれるんかいな?」

「え?」

若武者の言葉に、娘はキョトンと視線を返すだけである。

「これで、そちらさんの御用は済みましたんかいな?」

「あ__」

若武者に言われて、娘は何かを思い出したかのように、ポンと手を打った。

「あの__」

またしても急激にしおらしく態度を変化させると、殆どしなを作るような仕草で、娘はモジモジと若武者を見上げた。

「先程は、危ない所を助けて頂いて__」

もう一回やり直しという趣で、娘は改めて若武者に礼を言い直した。

「はあ__」

若武者も今度は丁重な物腰で、と言うよりまた切れられては堪らぬというような風情で用心深く娘に応じた。

「申し遅れました、わたくし、綾音と申します」

「綾音さん、でっか」

どことなく叩頭するような、腰の低い態度で若武者は綾音と自らの名を告げた娘に相槌を打った。

「失礼とは存じ上げますが、そちらの御姓名をお教え頂けましょうか?」

「わしの名前でっか」

相手の御機嫌を損ねぬように、若武者も壊れ物を扱うような調子で答えた。

「自分は__自分の名前は」

若武者の次なる言葉を聞き逃すまいと瞳を輝かせた綾音が、固唾を呑むように耳を澄ませて待ちうけていた。

「氏井弥四郎__よろしかったらあんじょう、よろしう」


 


 

2007年11月23日金曜日

新作です

皆様、稲妻地蔵です。

この度、新作の小説「はぐれ弥四郎流れ旅」をお届けいたします。

今回の主人公は細川忠利の御前において宮本武蔵と試合を取り行った柳生新陰流の剣客、氏井弥四郎であります。

この弥四郎の正体、剣豪に詳しい皆様の中には巻之壱で既に分かった方もおられると思います。そうでない方にもいずれは分かるように話を進めていこうかと思っております。


 

それでは、お目汚し御容赦のほどお願い申し上げます。

はぐれ弥四郎流れ旅    ~第一章~  巻之壱


 


 


 

武蔵国。

ここは天下の東海道、神奈川宿と保土ヶ谷宿の間である。

「何すんのよ!」

年の頃なら十六,七と言った娘に絡んでいるのは見るからにガラの悪い浪人体の男達、一,二,三……総勢十人近くであった。人通りの多い往来のど真ん中だが、誰もこの狼藉を咎めようとはしない。偶に足を止めようとする者があれば、浪人の仲間が凄んで追い散らす。それでも尚若い娘の難儀を救おうなどと云う酔狂人は残念ながら通りかからない模様である。

「いいじゃねえか、付き合えよ、俺たちと」

「バカ、誰が!」

その顔を見ただけで十分に暴力的といった模範的な悪人面がズラリと並んだ浪人集団を相手に、顔色は蒼ざめているとはいえ気丈に声を荒げる姿は勇ましい、いや、意地らしい限りだが、どう見てもこの状況にあって娘の身の安全は無きに等しいというのが現実である。

浪人の一人が娘の手首をつかんだ。

「いや、離して__」

その時である。

「な、なんだ手前エは!」

一人の若者がこの騒動の中に割って入ったのである。

腰に大小を帯びた、見た所武家の身なりである。浪人風ではない。深編み笠を手に、手甲脚絆の旅支度で身を固めた二十過ぎ位の若武者であった。

「なんじゃい」

丸出しの上方訛りで一座の浪人衆を睥睨した。

「東夷ちゅう奴は女一人を寄ってたかっていたぶるゴクツブシの集まりかい」

「なんだとお!」

「手前エ__」

若武者の挑発的な言動に、浪人たちの間に殺気が漲った。

「ニイチャン、えらくカッコ付けてくれるじゃねえか」

若武者がニヤリと笑った。

浪人たちに絡まれていた娘は、不安げな面持ちで様子を窺っていた。

「ようよう、上方のアンチャンよお__」

浪人の一人が前へ出て言った。

「女の前でいい格好してえってんだったら相手が悪かったなあ。俺たちゃあ、そんじょそこらのゴロンボたあ違う、この界隈じゃ名の通った竜巻組ってモンだぜ」

確かに、最近この辺りで暴れ回る浪人の噂は宿場街でも広まっている。彼らが噂の浪人集団なのだろう。

「まあ、禄にあぶれたとは言え、俺たちも武士の端くれだ。侍同士、ここは相みたがいといこうじゃねえか」

「見逃してくれるんかい?」

「ただし__」

浪人が下品な笑顔を見せた。

「手前エの身ぐるみここに置いてってもらおうか。それでお前さんは見逃してやらあ」

「ほうか__」

それっきり、若武者は沈黙した。何かを考えているのだろうか。何せ相手は多勢、こちらはたった一人の状況である。浪人たちの言う通り、格好付けたはいいもののここへきて後悔もひとしお、いらぬお節介をするのではなかった、この場を無事何事も無く切り抜けるにはどうすれば良いのかと思案にくれているのかも知れない。

一方、この騒動の原因となった娘は不安と期待の入り混じった眼差しで、先程から無言のまま成り行きを見守っている。

若武者は黙って自らの羽織の紐に手をかけた。

浪人たちが勝ち誇ったような笑いを浮かべ、娘は失望に落胆した。

「それでいいんだよ、坊や」

浪人たちの中から、一際髭を蓄えた男が若武者の目の前に進み出た。

「そうやって素直に言う通りにしてりゃあ痛エ目に__」

更に何かを言おうとした鬚面が、声をのみ込んだ。

「__痛エ!」

男が悲鳴を上げたのも当然である。若武者は目の前に出てきた浪人の髭を掴むと引きずり落とし、おまけに唾まで顔に吹きかけたのだ。

「なんだ?!」

「この野郎!」

既に若武者は鬚面を刀の柄で当て落とし、そのまま突き飛ばして仲間にぶつけると、息つく暇もなく浪人達の真っ只中に飛び込んで続けざまに当て身を食らわせ、瞬く間も与えず五人を簡単に片付けていた。

全く意表を衝かれた浪人達は、反撃のいとまもなく半数を倒されてただ茫然と倒れた仲間と若武者を見比べるだけであった。

浪人達に絡まれていた娘も、あまりに急激な展開に頭が付いて行かず、あれよあれよと成り行きを見守るだけであった。

正直言って完全に気後れしているにもかかわらず、未だ未練たらしくその場に踏み止まる浪人衆に対し、若武者は静かにそこに佇むだけであった。いきり立ったり、挑発的に笑ったりする事なく、極々当たり前のようにそこに立つだけの居ずまいである。もしも若武者が何かしら凄んだり好戦的な波動を撒き散らしたならば浪人達も勢いで反撃に転じたであろう。しかし、若武者は飽くまで自然に、些かの気負いも無く静かに事態を処理した為、浪人達も気を殺がれて口火を切る事が出来ないのだ。

見事な呼吸であった。

ふと__若武者が柄に手を掛けた。否、柄を握ろうとするかのように手を添え掛けた。

「__くっ」

浪人の一人が、まるで若武者と呼吸を合わせたかのように声を上げた。

「糞、引け、引き上げだ!」

そう言うとわずかの躊躇いも無く、脱兎の如く逃げ出した。仲間の一人がそう言ってくれたので、残りの浪人も救われたような想いでわらわらとその場から駆け出した。

倒れたままの浪人達と声も無く茫然と立ち尽くす娘をおいて、若武者は飄々と歩きだした。


 


 


 

2007年11月14日水曜日

小金ヶ原異聞 ~一刀流創成記~    其の壱


 

  
 


 


 

伊藤一刀斎の前に、一人の男が立っていた。

一刀斉は良くその男を知っている。男も一刀斉とは切っても切れない間柄である。

「師匠殿__」

男は静かに言った。外見上は静かな、些かの動揺も無いかの如き風情だが、その内面には極限の緊張が漲っていた。

「師匠、無心がござる」

「申してみよ」

「この__」

男は静かに抜刀した。

「師匠よりお教え頂いた」

そう言うが早いか、刀を下段に構えて言った。

「地摺り青眼の止めよう、ご教授願いたい」

「うむ」

一刀斉は静かに頷くと、おもむろに刀を抜いた。一文字作の名刀、瓶割の太刀である。

一刀斉も同じように地摺り青眼に構える。

どちらも動かなかった。

両者の間合いに蟠った鋭い沈黙が、手応えのある気合いを挟んで更に強張ってくる。研ぎ澄まされた静寂に立つ師弟の間に生じた深淵な殺気が、益々深みを増していった。

対峙して、どの位時間が経ったのか分からない。

世界の全てが停止していた。

ふと、一刀斉が動いた。

それに合わせるかのように、男も動いた。

静かだった。

そのまま、僅かの滞りもなく両者は歩を進め、間合いに近づいて行く。

下段に構えた太刀先が、地を擦る様に見えた。低く構えていると言う事ではない。まるでそう思えるように、沈んで見えていた。太刀を持つ手の力を抜いて、構えた刀が地を摺る様に下に押し込む、いや、無理に押し込むのではなくその様に安定した感覚を保つ。いわゆる、手の内が固まらねば出来るものではない。因みに、剣術で俗に"手の内が固まる"と呼ばれるのは、単に握力が増すとか手首が強くなるといったものではない。それも含まれてはいるが、手首から先だけではなく腕の付け根まで、かいな全体が固定する感覚を言うのだ。北派の中国拳法で言う所の含胸抜背と似ている。これを、下段構えで維持し続ける。

これが地摺り青眼である。

両者の間合いが殆んど限界まで近付いている。男も、一刀斉も下げていた刀を上げた。

擦れ違いざま、太刀を振るった。

そして__

「見えたか__」

一刀斉が言った。

「地摺り青眼の止めよう、しかと見届けたか」

「__地獄の土産に、なり申した__」

そう言うとともに、男は倒れ伏した。

一刀斉は無言で歩きだした。

伊藤景久__世間では、一刀斉の呼び名で知られている。中条流の鐘巻自斉に武芸を学び、師匠を打ち負かして以来諸国を流浪し、名の知れた剣客に試合を挑んで全てに勝ちを得てきた。新陰流の上泉伊勢守の高弟、柳生石舟斉と並んで当代きっての兵法家として名高き人物である。

今、この手で討ち果たした男は一刀斉の弟子であった。現在、彼は己の道統を受け継ぐ後継者を育てていた。だが、それは世間で言うところの免許皆伝とか印可状などと言った物ではない。

"このわしを倒す者が我が後継者なり__"

これが一刀斉のやり方であった。

師より技を受け継ぎ、その技を持って師を超える者__それが、継承者たる者の条件である。だが、それほどの門人は未だ現われてはいない。

今の男で二人目であった。

彼らは何れも一刀斉の門下となり、技を受け継ぎ、そして師匠に挑んで散っていった。

"そうでなくてはならぬ"

彼自身、師匠の自斉に試合を挑み、これに打ち勝って一流を立てた人物である。己もまた、その因果からは逃れられぬものと覚悟は決めている。兵法家として、自らの流儀を残すというのはそのような事であった。世に蔓延る、形式化した流儀の相伝など、数々の真剣勝負を勝ち抜いて今日の名声を築いた一刀斉からすれば論外なのである。

これまで一刀斉は、数多くの勝負を制してきた。そして、今は後継者を育てようとしている。そのきっかけとなったのが、約十年余り前__まだ三十代、血気盛んに強敵を求め、己の剣名をあげんと我武者羅に試合を重ねていた頃だった。

恐らく、当時"上り兵法、下り音曲"と言われた俗語に対抗して、

「上り兵法を下り兵法にしてみせる」

などと意気込んでいた時期であろう。既に数多くの真剣勝負を勝ち抜き、己の生涯最大、あるいは最後になるかも知れぬと挑んだ相手__後世、史上最強の剣客の候補として必ずその名が挙げられる鹿島神道流の宗家、塚原卜伝高幹との邂逅が景久の転機となったのである。

一刀斉は卜伝に試合を申し込んだが、断られてしまった。と言うより、彼の拒絶を自ら受け入れた。否、その老いさらばえた卜伝の姿を見た景久自身が、最早刃を交える気力を失ったのである。

「貴公が近頃名を知られた、一刀斉景久殿か」

淡白に顔をほころばせた卜伝には、最早多くの大敵と命がけの戦いを勝ち抜いた昔日の面影など残ってはいない。そこに座っているのは、年老いて迎えを待つだけの枯れ果てた老人にすぎなかった。

見た目は六十代位にも見えたが、この時卜伝は既に七十の峠を越え、もうすぐ八十に手が届こうかと言う高齢であった。確かにその年齢としては信じ難いほどに矍鑠としたその姿は敬意を表するに値するものがあったとは言え、兵法者としての盛りを過ぎて既に久しく、最早死を賭けた試合に身をさらすような血気はどこにも感じられなかった。恐らく、只の野盗位ならば老いたりとは言え卜伝の敵ではなかったであろう。しかし、一刀斉のような剣客と試合をすることは不可能であろうと思われた。

「見ての通りじゃ。既に老いたこの身で貴公の如き壮者と刃を交えるほどの力とて残ってはおり申さぬ。しかし、このような老いぼれでも切って名誉と成されると申すのならば本望じゃ。既に兵法者としては役にも立たぬこの身なれど、最後に誰かの役に立つならば、如何ばかりかの誉れとして冥土に旅立てると言うものじゃて」

こうまで言われては、無理に試合を挑む訳にもいかない。否、このような老人を手に掛けるような恥など自分自身に許されないのである。ましてや目の前に座すのは、明けても暮れても兵法に打ち込み、自らの命をさらして夥しい実績を残した偉大な先輩、そして今は残り少ない余命を残すだけの老体であった。これを斬り捨てて名高き塚原卜伝を討ち取ったり、などと虚言を吹くなど一刀斉の誇りに掛けて出来るものではなかった。

「了寛して頂けたようじゃな」

それ以来である、景久が己の後継者を育てようと思い始めたのは。

だが__その為には、自分を凌ぐ者を作らねばならぬ。実際に刃を交えて師をも斃す、それが自らの後を受け継ぐ者の絶対条件であると一刀斉は決めているのである。しかし、そのような強者は未だ現われていない。


 


 

ここは大和の国。河内との国境、現在の北葛城郡王寺町、JR王寺駅の近くである。

時に天正十二年。織田信長が家臣の明智光秀により本能寺で憤死を遂げたのが二年前。その仇を討った羽柴秀吉が前年には柴田勝家との間で跡目争いを繰り広げ、現在は徳川家康を相手取って苦戦している最中であり、戦国乱世もいよいよ大詰めを迎えていた。この年は宮本武蔵が生まれ(異説有り)、天下の形勢のみならず、兵法史にとっても重要な時期であった。

大和川のほとり、渡しの船を待つ一刀斎の眼に一人の男が映っていた。年齢は二十三,四と言った所であろうか。そのいでたちからして修験者らしい。山野を駆け巡って厳しい修業に明け暮れたのであろうと知れる、威圧的な野気を全身から発散する巨漢であった。他には誰もいない。一刀斉とこの巨漢だけであった。

一刀斉も大男だが、この修験者はそれに見劣りしない巨体の持ち主であった。

向こうも一刀斉の視線を、只ならぬ剣気を敏感に察知しているようである。

"ほう__"

一刀斉は更に濃厚に、巨漢に気を放った。

互いに目線は交していないが、既に何かを感じ取っている。

「何か御用かな__」

一刀斉には目を向けず、巨漢が低い声で言った。

「用などはない」

一刀斉も何気なく答えた。

「図体ばかりの木偶の坊などに、何も用はないわ」

あからさまな挑発である。

巨漢が一刀斉に向き直った。その眼に、尋常ならざる激情が燃え上がっていた。一刀斉が、冷やかな眼差しで返す。

巨漢が手に持った金剛杖を構えた。一刀斉は腰に帯びた自らの差料を抜かず、渡し船を操るのに使うのであろう、川べりに何本か落ちてある竹の棒を拾った。

巨漢の全身から、凄まじい猛気が立ち込めている。気の弱い者ならばその場に腰を抜かすほどの強烈な気合いであった。

やおら、巨漢が打ちかかってきた。その巨躯が風のような速さで向かってくる。一刀斉は動ずることなく、手にした竹竿で巨漢を一打ちした。

「ぐおっ__?!」

命を奪うほどのものではなかったが、相当厳しく打ちすえた一撃である。普通の人間ならば気絶するか、そこまで行かずとも苦痛で倒れ伏すような打撃だ。しかし、巨漢は倒れる事無く歯を食いしばり、一刀斉を睨みつけている。

怒り狂った巨漢が、遮二無二打ちかかってきた。しかし一刀斉は平然とやり過ごし、再び竹竿で巨漢を打ち据えた。それでも巨漢はひるむ事無く挑みかかり、三度目の打撃を受けた。今度は身体ではない。手にした金剛杖を撃ち落とされ、無手となった。

「どうじゃ」

一刀斉が巨漢に声を掛けた。

「その短い杖では不利であろう。長い得物を拾うて今一度勝負と行かぬか」

「__ぐ」

相手に言われてその通りに竹竿を握るのは屈辱である。その心中を察した一刀斉が、手にした竹竿で巨漢が取り落とした金剛杖を遠くへ払い飛ばす。これで巨漢は竹竿を手にする他なくなった。巨漢は竹竿を拾うとギリギリと握りしめた。屈辱も然る事ながら、今度こそと言う思いに自然と手の内に力が入るのだろう。実際、長い道具を操るのは相当な膂力を必要とする。これならば然程自分が不利な訳ではないはずだった。腕力には自信があるであろう巨漢が、その力の有りっ丈を込めて尺のある竹竿を一振りすると、びうっ、と風を巻く豪快な音が空気を切り裂いた。が、一刀斉はその一振りを己が得物で軽く受けると自然にその勢いを流し、切り返しざまもう一度巨漢を打ち据えた。今度は小手である。

「うあ__!」

打たれた右手は痺れて、彼はいかなる得物を握ることも不可能であろう。勝負は完全に付いた。

「__く」

右手の自由を失っても、未だ左手で竹竿を握りしめ、物凄い目付きで巨漢は一刀斉を睨みつけていた。

「天晴な心意気じゃの」

一刀斉はおどけた調子で言った。

「しかし、勝負はついた。如何にそなたが馬鹿力でも、片手でその得物を扱うのは無理じゃろうて」

巨漢は憎悪の籠もった眼を一刀斉に向けていたが、どうやら勝ち目はないと悟ったらしく、手にした得物をその場に捨てた。

「どうじゃ、お主。わが門人とならぬか?」

出しぬけ、としか思えない一刀斎の言葉に、巨漢は腑に落ちぬとばかりに戸惑いを見せた。

「実はの、わしは弟子を探しておる。自らの道統を受け継ぐ後継者をの」

巨漢は無言で一刀斉の言葉を待っていた。

「そなたの面魂は実に見事じゃ。わしは腑抜けた弟子など取ろうとは思わぬ。どうせ自らの技を譲るのならば、尋常ではない者を弟子にしたいと思うておるのじゃ」

「わしを、弟子に?」

「うむ__」

一刀斉は頷いた。

「断る」

巨漢の返答は或いは当然かも知れなかった。

「そなた、わしに敗れた事を悔しいと思うてはおらぬのか?」

巨漢は答えない。答えられるような心境ではなかった。

「今のままではわしには勝てぬぞ。如何に貴様が腕を磨こうと、わしには勝てぬ。だが、勝つ方法が無い訳でも無い」

巨漢は相変わらず無言で立ち尽くしていた。

「このわしから技を盗む事じゃ。如何に別の師に就いて腕を磨こうとも、それだけでは不十分じゃ。孫子も言うておろう、敵を知り己を知らば百戦危うからず、とな。わしから技を盗み、同時にわしの事を探るがよい。それにの、たとえ腕を磨いてわしに勝つ自信が出来たとしても、相手がどこにいるのかも分らねば話になるまい。ずっとわしに付いて旅を続けておればその苦労もせんで済むわ」

最初は相手の言う事などはなから聞く耳持たぬという心持であった巨漢も、何やら不思議と一刀斉の言い分を受け入れる気になったようであった。

「よかろう」

巨漢が頷いた。

「ただし、わしが貴殿の供をするのは飽くまで貴殿を倒すためじゃ。それでも構わぬと申されるか?」

「うむ」

一刀斉も巨漢に頷き返した。

「尋常の試合でなくともよい。いつどこで、どのような場合でも構わぬ。わしに隙が有ればいつでも襲うがよい。寝首を掻こうが厠であろうが隙があればいつでも狙ってよいぞ。もしもそれで討たれるような者であればわしの兵法など所詮それまでの事よ」

「貴公は兵法者に有られるか?」

「然り。伊藤景久、世間では一刀斉と呼ばれておるがの」

「貴殿が、あの伊藤一刀斉__」

その名を耳にした途端、ふてぶてしかった巨漢の眼に、畏怖の色が浮かんだ。


 


 


 

小金ヶ原異聞 ~一刀流創成記~    其の弐


 

  
 


 


 

伊藤一刀斉景久は、弟子の小野善鬼を伴って全国を行脚していた。

「そなた、名はなんと申す」

大和の国で立ち会って門人とした修験者風の巨漢に、一刀斉は尋ねた。

「前鬼と申します」

一刀斉は内心苦笑いに似た感想を抱いた。

前鬼後鬼と言えば、役行者が護法童子として使役していた式神の名前ではないか。恐らく大峰で修行していた頃の法名、と言うよりは徒名だったのだろう。本名はなんと言うのか、恐らく呉作とか茂平と言うような名前であろうと察して一刀斉もそれ以上は詮索しなかった。

「姓はなんと?」

「ございませぬ」

無愛想な顔で答えるのみであった。

「兵法者としては、一応世間への名乗りが必要じゃが、姓が無うてはのう」

「なれば師匠殿が適当にお考え下され」

意識的に、どうでもよい、と言う口調で答えた。内心は相当劣等感を抱いている筈だが、それが逆に無関心を装う態度になって表れるのだろう。

「そうじゃのう……」

一刀斉も困ったが、そう言われては考えぬ訳にも行かない。

「小野、というのはどうじゃ?」

在り来たりな名字である。言われたとおり、本当に適当に考えただけの性であった。

「結構な姓を賜り、有難う存ずる」

うわべは意地を張って、全く口だけの謝辞という態度で頭を下げたが案外内心は嬉しかったのかもしれない。

そうして、後世に知られた伊藤一刀斉の高弟、小野善鬼の名が誕生したのである。全くの偶然だったが、この時一刀斉が思いついた『小野』という姓が、後々奇しき因縁となって後世の歴史に残る事となった。

前鬼を善鬼としたのも一刀斉であった。見るからに凶悪な面構えの、悪鬼にしか見えないこの男に善の字を当てるのも、或いは悪趣味な洒落っ気と言えるかもしれない。

一刀斉の下で、善鬼は見る間に腕を上げていった。元々素質はある上に修験道で基礎体力も精神力も鍛えられていただけに、後は技の修練だけである。これも善鬼は非凡な天分を発揮し、その上達ぶりに一刀斉も舌を巻いたほどであった。

「これは堪らんのう」

一刀斉が微笑しながら言った。

「貴様がこの調子で腕を上げていったのでは、わしの命も僅かしかもたぬではないか」

「師匠殿が如何にそれがしを誉め殺しても容赦は致しませぬぞ。過日、必ずや御首級を頂戴いたしますゆえ、くれぐれも御覚悟の儀、願いあげまする」

大真面目な顔で答える善鬼に、一刀斉も閉口するばかりであった。

一刀斎の門下に入った善鬼は、日々兵法の修行に精進していた。否、精進などと言う生易しいものではない、憑かれたように修行にのめり込んで行った。元々修験者の荒行などは、合理的な陰陽道とは違って一種異様な偏執狂的性格でなければ全うできるものではない。因みに現代にその道統を伝える陰陽師__何人も居るが、その一人はプロのカメラマンが本業でゲームソフトの開発にも携わったという。修験道は深山に寝起きし、非合理で無茶苦茶な極限状態に己を追い込み超感覚を開発する、しくじれば死ぬだけという大博打なのである。その病的に一徹な性格は生来のものか修験道で培われたものかは詳らかでないが、善鬼が狂気にも似た情熱を兵法に注いでいる事は間違いなかった。彼をしてそうまでして修行に打ち込ませる理由は何であろう。単なる性格以上のものが有る様に、一刀斉には思えてならなかった。立ち会って恥をかかされ、門人にされた恨みから師匠の命を奪おうという執念か、それとも何か他に動機があるのだろうか。あるいは善鬼本人にもはっきりした自覚は無いのかもしれない。

善鬼のいでたちも、今は修験道の道着ではない。腰に大小を帯びた、どこから見ても疑いようのない武士の容儀だった。

そうして、丸一年余りの月日が経過した。

例によって、腕に覚えの剣客が一刀斉に試合を申し入れた。相手は馬庭念流の使い手だと言うことである。

何につけ、その道で自信が出来てくると、試したくなるものだ。善鬼の血が無性に熱くなった。

「師匠殿」

宿の部屋で上座に腰を下ろした一刀斉の前に、善鬼がまかり越した。

「今度の試合は、それがしにお任せ願えまいか」

「そなた__」

「師匠の名を汚すような無様な真似は致しませぬ。もしもそれがしの技量が拙う、一命を落としましたる時は、師匠殿に仇討をお願い申す」

一刀斉としても考えねばならない。

冗談ごとではなく、もしも善鬼が不覚を取った場合はその恥は師の一刀斉が負わねばならないのだ。有る意味では弟子の命などよりもこちらの方を心配せねばならぬ一大問題であった。しかし、善鬼の真摯な表情を見るにつけ、一刀斉も考えはじめた。

長い沈黙があった。

「善鬼よ」

おもむろに、一刀斉が口を開いた。

「そなた、必ずや勝ちをものにする自身は有るのか?」

「ございます」

迷いもなく言い切った。

もしこの時善鬼が、勝負は時の運と申します、と言ったり、否、言葉は同じでも答えるに僅かな気後れでも見せたなら、一刀斉も彼を試合に出す事は無かったであろう。

「うむ__」

一刀斉の腹は決まった。

「善鬼よ」

一刀斉は厳かに言った。

「そなた、弟子が師に代わって試合を受けると言う意味を充分に心得ておろうな?貴様が敗れると言う事は、この一刀斎の恥ともなる。そなたにしてみれば失うものなど己の命一つと軽々に考えておるやもしれぬが、このわしにとってはそれだけでは済まされぬ。そなたが万が一にも不覚を取る様な事があってはこの一刀斉にとっても取り返しのつかぬ始末となる。重々、肝に命じておろうな?」

「しかと__」

覇気を漲らせて頷く善鬼の姿を、一刀斉は頼もしげに見返した。

試合当日。

善鬼と一刀斉は相手よりも先に到着していた。善鬼は鉢巻きにたすき掛けの、試合の為のいでたちで木刀を手にしていた。

場所は打ち捨てられた破れ寺の境内である。

「善鬼よ」

一刀斉は最後に更なる念を押した。

「重ねて言うが、万が一にも敗れる事は許されぬぞ」

「はは__」

初めての試合を前に、善鬼もやや緊張気味に頭を下げた。

「わしに貴様の仇打ちなどさせるでないぞ」

「断じて」

試合に臨むにあたり気負いは隠せないものの、些かの気遅れも見せない善鬼の佇まいに、改めて一刀斉は期待を抱いたのであった。

やや遅れて相手がやって来た。

馬庭念流の使い手、相良新左衛門なる人物である。こちらも弟子を引き連れ、堂々たる容疑を整えての登場だった。

「貴公がかの高名なる伊藤一刀斉殿か」

「一刀斉伊藤景久でござる」

「本日は立ち合いに応じて頂けたこと、恐縮に存ずる」

相良が門人ともども頭を下げた。

「それでは早速勝負に参りたいと欲するが、如何?」

「どうじゃ」

一刀斉が善鬼に向き直った。

「相良殿はこう申されておる。善鬼、異存はあるまいの?」

「それがしに依存とて御座りませぬ」

善鬼が丁重に答えた。そのやり取りを目の当たりにした相良が、浮足立ったように顔色を変えた。何やら妙な雲行きになりそうな感じである。

「それでは、試合と参ろうか」

「ま、待たれよ」

相良が怪訝そうに聞き返した。

「拙者が試合を申し入れたるは一刀斉殿でござれば__」

「本日の立ち会いはこの__」

相良の言わんとする所を予め想定した上で、相手に皆まで言わせず、一刀斉が言い切った。

「我が門弟、小野善鬼が御相手仕る」

「宜しくお願い致す」

「な、なにを__」

相良にすれば思ってもみなかった成り行きである。最初、一刀斉と思しき年嵩の男の傍らでその門人らしき若造が物々しくも鉢巻とたすき掛けで立っているのを怪訝に思っていた相良だったが、まさかこのような事になるとは思ってもみなかった。

「それがしが立ち会いを申し入れたは一刀斉殿でござる!」

「貴公が真に我が師一刀斉と試合うに相応しい御仁か否か、まずはそれがしと立ち会って見極めると師匠は申して居りますれば」

相良が一刀斉の方に向き直ると、只今の善鬼の言葉を肯定するように、一刀斉は尤もらしく頷いた。

「ここにおる善鬼めはこの一刀斉が手塩にかけて育てましたる高弟、その腕前は天下の兵法者と比べても決して退けはとり申さん」

「く__」

相手の足元を掬うような一刀斎の饒舌に、相良は度を失いかけて顔を歪めた。こちらの思う壺である。

「善鬼を恐れて試合を取り止めるとあらば当方も致し方あるまいが」

「おのれ!」

逆上した相良は声を荒げて叫んだ。

「よかろう!そちらの御高弟とやらと立ち会おう!ただし、この試合が済んだなら一刀斉殿が我が挑戦を受けて頂けるであろうな?!」

「この、善鬼に勝てば、の」

「__く__」

相良は前後不覚に陥るほどに激昂していた。

「善鬼殿とやら__」

怒りに顔を引き攣らせた相良が善鬼に向き直った。

「されば始めようぞ!」

木刀を善鬼に突き付け相良が声を荒げたが、善鬼は静かに手にした木刀を捨てた。

「試合ならば__」

訝しげな色を顕わにした相良の目の前で、腰に帯びた刀を抜いた。

相良の顔色が一瞬青ざめた。

「真剣にて仕ろうぞ」

不意の申し出に、相良は言葉を失って立ち竦んだ。

「相良殿、如何__」

相良は木刀の試合と思っていたのだが、突然の申し出に戸惑う他なかった。

「善鬼よ__」

相良の内心を見切った一刀斉が、追い討ちを掛けるように言った。

「相良殿を困らすでない。見よ、色を失っておいでではないか」

「良かろう!」

一刀斎の侮辱に面目を失った相良は木刀を放り捨て、やおら腰の太刀を引き抜いた。

「兵法の試合を致す以上、是非とも真剣にて執り行おうではないか!」

既に相良は冷静な判断力を失って、完全に一刀斉側の策に乗せられてしまった。試合の前から勝負は決まったも同然であった。

相良の門人と思しき同行者たちは、行き成り真剣勝負を受けて立った師の振る舞いを、内心に不安をもって見守っていた。

「いざ!」

「いざ__」

相良の掛け声に応じ、善鬼も間合いを取って刀を構えた。

相良は上段、善鬼は下段__どちらもそれぞれの流儀の基本となる構えであった。

善鬼の構えは当然"地摺り青眼"である。

馬庭念流は真っ向からの大上段が基本の構えである。更に、俗に撞木を踏むと言われる大股の立ち方で構えるとも言われるが、これは練習用の足運びであって、実際の試合にあってはそれほど大げさに歩幅は開かない。

"こ奴__"

初めての試合、それも真剣勝負に臨んで堂々たる威容で剣を構える善鬼の姿に、一刀斉は舌を巻く思いであった。それも、相良の焦りを冷静に見抜き、突然の変更を自分から申し出て挑発し、相手を呑んでかかる善鬼の胆力には一刀斉ですら感心する他なかった。最初から、真剣勝負を申し入れようなどと打ち合わせていた訳ではない。一刀斉が相良を嘲って焦らせたとは言え、初めての試合でこれほど冷静に状況を見極め、頃は良しと見てここまで大胆な振舞いに出ようとは善鬼の腹の据わり方は尋常ではなかった。

善鬼と相良の間合いがほぼ半ばで拮抗していた。武術、取分け道具を使った試合では間合いを制した方が殆んど勝ちを得たも同然である。両者ともに互角の対峙だが、善鬼の方に余裕があるようであった。馬庭念流は、念阿弥と呼ばれた僧、慈恩によって創始された流儀と言われ、この流派の名人樋口定次は試合にあたって参詣を繰り返し、満願の日に大石を木刀で真っ二つに割ったと伝えられる。その流派を学ぶ者は一念を込めよと指導され、集中力も相当鍛錬している筈だが、修験道で鍛えた善鬼の精神力もそれに退けはとらない。互角の押合いが続いたが、善鬼がその均衡を破った。中央で停滞していた間合いを押し込むと、見る間に善鬼は地取りを己のものにした。押し込まれた相良は脂汗を流して必死に対抗したが、善鬼の気合いは一層強硬に高まってくる。今一度、善鬼は更に間合いを押し込むと、位押しに押して一歩踏み出した。相良は歯を食い縛ってこれに抗したが、持ち堪える事は叶わず既に善鬼の間合いに取り込まれてしまった。

「__く!」

無念の形相で善鬼の肉迫を迎え撃った相良には、既に死の覚悟は出来ていた。一か八か、最後の勝負に望みを託し、相良は真正面に迫る善鬼目掛けて上段に構えた刀を振り下ろした。

「あ!」

相良の門人たちが声を上げた。

一刀斉は、既にこの結末が見えていたかの様に満足げに頷いた。

善鬼の剣先が、最後の一太刀を振り切った相良の胸の半ばまで突き刺さっていた。

「う、ああ__」

柄を握った善鬼は残心の構えを保ち、物凄い無表情のまま暫しその場に立ち尽くしていたが、やがて太刀にもう一息を込めると徐に刀を引き抜いた。

相良がその場に倒れ伏した。

返り血を浴びて真っ赤に染まった善鬼の姿は、まさしく赤鬼そのものであった。


 

小金ヶ原異聞 ~一刀流創成記~    其の参


 

  
 


 


 

善鬼は試合を繰り返し、その名を天下に轟かせた。

伊藤一刀斎の高弟、小野善鬼と言えばその凄絶な剣技で相手を容赦なく血祭りにあげる非情の剣客として六十余州に知れ渡り、その名を聞けばどんな腕自慢も震えあがると評判が立つほどであった。

善鬼の前に立つのは、天流の川崎道軒という兵法者であった。

「う__」

善鬼の気合いに呑まれ、進むもならず下がるもならぬ道軒は、青褪めた顔で必死に剣を構えるのみであった。

「御免__」

善鬼の太刀が振り下ろされ、勝負は呆気なく終わった。

「師匠殿」

「うむ」

試合を終えて罷り出た善鬼に、一刀斉が満足げに頷いた。

「そちもかなり腕を上げたのう」

「是非も御座いません」

師匠の称賛に、善鬼は素っ気無く答えるのみであった。

「それがしが経験した試合はまだ八回にござる。師匠の半分にも及びません故__」

記録によると伊藤一刀斉は生涯に三十三度の試合を行い、全勝したとある。

善鬼が行った八度の試合のうち、三回が真剣勝負であった。木刀の試合であっても、善鬼は必ず相手の息の根を留めた。

"善鬼め"

一刀斉は思った。

"こ奴、益々強くなりよるわい"

試合を重ねる度に善鬼は確実に強くなってゆく。それは単に腕を上げると言うだけではなく、何もかもが変わって行くように善鬼自身には感じられた。しかし、同時に一刀斉には不安もあった。自分が殺られるなどと言う事ではない。何と言うか、善鬼自身にとって危険な、言葉にはならない不吉なものが忍び寄って来るように一刀斉には感じられるのだった。

試合を一つこなす度に、即ち人を一人殺す度に善鬼の中の何かが変わって行くように思われる。変わる、と言うより進んで行くように思える。それは初めての試合で最初の一人を手に掛けた時から、否、一刀斎の門人となって修行を始めた時から、もっと言えば大和川のほとりで顔を合わせ、立ち会った時から、善鬼の中の何かが成長、進歩、どのように言えばよいのかは言えばよいのかは分らぬが、なる様になって行っているように思われた。

善鬼の顔にも、それははっきりと表れている。元々他人を震え上がらせるような強面の人相だったが、最近では更に何か暗い影が射しているようにも見える。只の悪人面であった善鬼の顔が、今では凶相とも言うべき鬼気迫る顔に成り果せているようであった。

しかし、矢張り大きな転機は最初の試合であったろう。彼は自分で人を殺した事がなかったのである。時代が時代である、人を殺そうと思えば幾らでも殺せる状況だったが、善鬼はその経験がなかった。

元々善鬼はそのような性格ではない。気が弱いとまでは言えないが、どこか神経質で過敏な所があった。この時代、野心を抱く下層民の若者が一旗揚げようと思えば一番手っ取り早いのは、槍一本を担いで合戦に赴き、武勲を立てて功名を顕す事である。当然彼もまた、その例にもれず故郷の村を後に戦場に身を投じたのである。しかし、現実は甘くなかった。実際に戦場に出ると足が竦み、良き敵を探す所か槍合わせ一つ満足に出来ないのである。村では暴れ者で通った腕自慢の善鬼だが、戦場に出るとまるで勝手が違うのである。嘶く軍馬の轍、法螺貝や陣太鼓の響き、武者押しの喊声が轟くと普段の自分がどこかに失せて、何が何やら分らなくなるのだった。戦場では、意外に平素臆病な者が暴勇を振るう事がある。無論、日常勇猛で合戦に臨んでも矢張り変わらぬ豪傑や、普段から臆病で戦場でも震え上がる様な者もいる。善鬼は日常豪儀だが、いざ戦場に出るとまるで萎縮する性質であった。図体はでかいし我は強かったが割と思い詰める性格で、どちらかと言えば粗暴な荒武者とは肌合いが違う様である。

「お主に槍働きは無理ぞな」

この様に言われる事もしばしばであった。

「一度、山にでも籠ってはどうじゃ」

この時代、所謂密教的な修行で心胆を練る武士は少なくない。笹の才蔵と異名を取った可児才蔵などは、肉体的な素質は申し分無かったが余りに気が小さくやはり密教の修行に身を投じ、怪しげな行者の暗示により恐怖心を克服して以来人が変わったように豪胆となり、周囲の目を欹てるほどの軍功を次々と打ち立てるに至ったのである。

善鬼もまた、大峰山に籠って修験道の修行を始めたが、生来のめり込む性格らしくいつの間にか戦場で武功を立てる事を忘れ、山伏の修行に精を出し始めた。集中力は有るが、その為に人人人が入り乱れる合戦には向かない性格だったのである。寧ろ一人で没頭できる修験道か、目の前の相手だけに集中できる兵法の試合が善鬼の本領であるようだった。恐らくはそのせいだろう、善鬼は日々兵法の修行に打ち込んでいる。それが今の善鬼にとっての全てだった。他には何一つ彼の日常には入って来ない。それは、まるで執り憑かれたような姿だった。

師の一刀斉も戦場に出た事はない。あったかも知れぬが、本人の口から語るほどの武功を立てた事はないのだろう。兵法者とは大体そうである。この時代、豪傑として知られた荒武者は皆、兵法など軽んじていた。例の塚原卜伝なども生涯に打ち取った数二百十二人、などと具体的な数字を吹聴してはいるが、その内訳がどこで何人、ここでこれだけとは明確に語られていない。戦場では手傷を負わされた事が無い、とだけ記されており、卜伝自身の先輩であり師匠の一人でもあったであろう松本備前守のように、戦場での武勲首級の総数七十五、その内兜首が二十五と言った具体的な手柄話はどこにも書かれていないのである。この時代、丁度卜伝の時代辺りから兵法も戦場での実用技法から試合という形式に絞った"武芸"に転換しつつあるようだった。

戦場で役立たずの烙印を押された善鬼が病的な執念で兵法の修行に打ち込むのも、その時の屈辱を雪ぐ為の決意だったのだろう。

その姿に、一刀斉は流石に不安を覚えた。

「そち__」

一刀斉が、ある日善鬼に言った。

「おなごは嗜むかの?」

師匠の意外な言葉に、善鬼も怪訝な顔を隠しきれない。

「おなごは良いぞ」

答えるに答えられず、無言のままの善鬼に一刀斉は続けて言った。

「ただし、ほどを弁えればの話じゃがの」

一刀斉には苦い経験がある。前原弥五郎と名乗っていた頃の話だ。

当時一刀斉、前原弥五郎は一人の女と懇意となり、彼自身すっかり気を許していた。その日も弥五郎はその女と飲み明かし、座敷で横になって寛いでいた。女は部屋を開け、代わって数人の男たちが入って来たのであった。とっさの事態に驚いて応戦しようとした弥五郎だったが、彼の脇には大事な差料がなかったのである。女が持ち出したのだ。実はその女の正体は弥五郎がかつて斬った兵法者の縁者であり、彼を斃す為に送り込まれたのである。

酔いも一遍に醒めた。如何に弥五郎と言えども絶対絶命の危機である。無手の弥五郎がどうやって完全武装の一団を相手に戦ったのか、本人もしかとは記憶がない。そのうち相手の一人から得物を奪い、形勢を逆転して何とか窮地を脱したのであった。これが一刀流"払捨刀"誕生の由来であると後世伝えられている。

それ以来、弥五郎は酒色を断ち、名も伊藤景久と改めた。同時に兵法一筋に打ち込むという決意を固め、一刀斉と言う号を名乗ったのである。

「何につけ、ほどほどにせよ。酒も女も、の」

そんな師を怪訝な顔付で見つめる善鬼だった。

「兵法もまた、然り」

一刀斉の言わんとする所の意味を測りかねて、善鬼は一言もなかった。

最近一刀斉は頻りと夢に見る。今までにこの手で葬った二人の弟子たちであった。

"わしも、老いたか__"

かつては鬼夜叉と呼ばれ、魔性の剣技で数々の強敵を

倒し、弟子をも手に掛けた非情の剣聖、伊藤一刀斉も年とともに気が弱くなり、仏心が生じるようになったのか。

そんな一刀斉の煩悶をよそに、善鬼は日々、兵法の修行に余念が無かった。


 


 

ここは関東、俗に言う関八州である。時に天正十五年、関白に叙任され豊臣の性を賜った旧羽柴秀吉が九州征伐に軍勢を上げている頃である。関東の大領主北条氏は信長在世中にすぐ隣の徳川家と不可侵条約を締結しており、中央の覇権争奪戦とは直接関わりないが、豪族同士の小競り合いが未だに続いているのが関八州である。しかし現在は小康状態にあり、今の所平穏な八州に姿を現した一刀斉と善鬼の師弟は上総の国で宿を取っていた。

"師は変わられた"

最近の一刀斉に、善鬼は不満を抱いていた。

この八州行脚の最中、一刀斉は古藤田俊直なる人物を門人に加えていた。それも主持ちで旅に同行もせず、数日の逗留中に手解きを受けただけで単に名義上師弟の契りを交わしただけの関係だった。以前の一刀斉ならばそのような腑抜けた約定など一蹴したであろう。

「これも世渡りぞ」

兵法者と言えど、只腕前を誇って踏ん反り返って居れば良いという物ではない。矢張り世知辛い浮世を生き抜いて行く為には有力者に取り入って何かしらの利益に有りつかねば食ってはいけないのが悲しいかな現実なのである。長い放浪生活で一刀斉はその方面の手管も心得ていた。

その古藤田から、推挙したい若者がいると聞いた一刀斉はこの上総にやって来たのだ。古藤田の仕えていたのは北条氏、上総の領主はその北条一族とは仇敵の間柄ともいうべき里見氏である。だが、元々古藤田家は北条家の家臣ではない。と言うより、後北条氏自体がここ半世紀ほどの間に台頭してきた、俗に言う出来星大名で代々の家臣など殆どいないため、別段この両家の家臣同士が親交を持っていても不思議ではない。現に古藤田家は江戸時代には美濃大垣戸田家に仕えている。

「神子上典膳でござる」

一刀斉の前に現れた若者は頭を下げた。それほど大柄ではないが、何かしら秘めた物を感じさせる気配を漂わせている。

「古藤田殿より御尊名は伺っておる」

一刀斉も如才なく答えた。

「なるほど、話に聞いた通りの利発そうな若者じゃて」

如何にもこちらを小僧扱いした一刀斎の言い方に、典膳は少し不満を抱いたらしい。

「古藤田殿からの要請では、貴公に手解きするよう頼まれたが……」

「いえ__」

典膳は首を横に振った。

「拙者が願いたき儀は試合にござる」

「試合、とな」

典膳の大胆な発言に、一刀斉は内心を糊塗してひょうげて見せたが、善鬼は一遍に顔色を変えた。

「左様__」

恐れを知らぬ不敵な態度で頷いた典膳に、一刀斉も苦笑いを洩らした。これで察せよ、と言う一刀斉側の信号だったが、やや震えを伴った典膳は、覚悟を決めたと言わんばかりに押し黙ってそこに踏み止まっていた。

「試合とあらば__」

そんな身の程知らずの青二才に、善鬼が身を乗り出すように言った。

「師匠の前に門弟たるそれがしが御受け仕ろう」

内心に怒りを燃やした善鬼が目の前に立ちはだかると、流石の典膳も蒼褪めて足が竦んだ。彼も伊藤一刀斉の高弟、対戦相手を必ず血の海に沈める情け無用の殺人狂、無頼の凶剣と呼ばれた小野善鬼の評判は聞いている。平然としていられる方が異常である。

「これ、善鬼よ__」

相も変わらず余裕の苦笑いを含んだ一刀斉が、弟子の短慮な言動を戒めた。

「典膳殿はこの一刀斉との立ち会いを所望との仰せじゃ。弟子のそなたを立たせては不敬と申すものじゃて」

善鬼が試合に出れば典膳を叩き殺すであろう。そうなっては折角の後援者を失いかねない。一刀斉は善鬼を制して典膳の前に罷り出た。

「神子上殿、弟子の非礼は御詫び致す。これこの通り、伊藤一刀斉が貴殿の御相手致すゆえ、ご容赦願えまいか?」

「かたじけのうござる」

善鬼の怒気に煽られてすっかり自分を見失った典膳が、救われたような思いで一刀斉に答えた。

「試合は何にて致そうや」

「真剣で御願い申す」

「ふむ__」

折角一刀斉の配慮で取り留めた一命を再び放り捨てるような言動に正直呆れたが、同時に何か感ずるものが有ったようである。

「承知致した」

一刀斉も頷いた。

「貴公は真剣なと何なと御随意に使われるがよい」

そう言うと、一刀斉は薪雑報を一本拾い上げた。

「それがしはこれにて__」

怪訝な顔でこちらをうかがう典膳に、一刀斉は言った。

「仕る。御遠慮無う参られよ」

再び典膳の顔色が蒼褪めた。今度は恐怖ではなく、怒りと屈辱である。年若いとは言え、三神流という余り聞いたことのない流派とは言え、彼も一応一端の兵法者である。それをここまで正面切って侮辱されたのでは我慢ならぬ所だ。

その脇では善鬼が、小気味良さげにこのやり取りを見物していた。

「いざ__」

一刀斉は一尺の薪を手に半身に構えている。

典膳も度を失って愛刀波平行安二尺八寸を引き抜くと、右脇に構えた。だが、それは構えたと言うよりは刀にしがみ付く様な姿だった。本人も何をやっていいのか分らない。今や、自分が何をしているのかすら把握できなくなってしまっていた。無我夢中で一刀斉に向かって行った。何をどうやったのかも、どうされたのかも全く理解できない。只、気がつくと得物を奪われ、一刀斉が手にした刀を静かに薪を並べる棚に置くのが見えただけであった。

「__」

「今一度、仕ろう」

一刀斉に促され、まるで操られるようにその言葉通り刀を手にするとまた同じように斬りかかって行った。

結果は同じであった。

まるで勝負にならず、薪を手にした一刀斉を相手に真剣で立ち向かった典膳は只々いいようにあしらわれるだけであった。

「御得心かの?」

そう言うと、一刀斉は奥に引っ込んだ。しかし、典膳は真剣の代わりに三尺の木刀を手にすると一刀斉に懇願した。

「い、今一度__」

姿を見せた一刀斉は再び薪を手に、典膳と向かい合った。何度繰り返しても、結果は同じであった。

「なかなか良い太刀筋でござる」

一刀斉は目を細めた。

「若いうちは修行が肝心であるゆえ、何度でも御相手致そうず。貴君の身に傷を付けるような事は致さぬ、存分に掛って来られよ」

流石に向こう気の強い典膳もこれで完全に毒気を抜かれてしまった。

一度帰宅して夜も眠れず考え明かした典膳は、これはまさしく氏神の化身かと思い決め、彼もまた一刀斎の門下に入ったのである。

善鬼に取っては破滅の始まりであった。


 


 


 


 


 


 

小金ヶ原異聞 ~一刀流創成記~    其の四


 

   
 


 

新たに神子上典膳を加えた一刀斉一門は、修行の為に全国を周遊しいていた。

「良いか、典膳」

新弟子の典膳を相手取り、善鬼は一門の心得を諭していた。

「我が一門は世上に群がる有象無象の輩とは違う、命懸けの兵法を模索する流派ぞ。常に己が一命を死地に曝し、その窮地から生を掴む、左様心得るがよい」

「はは__」

典膳は一本気で純粋な青年である。先輩の善鬼の言葉に、真摯に耳を傾けて聞き入っていた。

「師は仰せられた。わしから技を盗み、その技を持って師を斃す者、それが我が一門の後継者なり、と」

先輩風を吹かせて新入りにあれこれと教え込む善鬼の姿を、一刀斉は何かしら安心したような気分で眺めるのだった。

「当然、わしとそなたも同じ、何れは師の後を争うて刃を交える宿命にある。その覚悟は据えておかねばならぬぞ」

「承知いたして候」

"これで、善鬼めも変わるやも知れぬ"

一刀斉は、内心秘かな期待を抱いていた。

近頃めっきり鋭気が失われた一刀斉は、正直善鬼の生一本な情熱に疲れを覚えていた。元はと言えば自分自身が吹き込んだ事であったが、その一刀斉自身が最早その荒ぶる闘争心を失いつつあった。

"善鬼と、典膳が手を携えて我が流儀を継いでくれれば__"

堕落と言えば堕落だが、今の一刀斉は既に昔の彼とは何もかもが違っていた。かつて自らの手で己が弟子達を切り殺した無情の剣師伊藤一刀斉も、五十を過ぎて考え方が守りに入ったようである。

因みにこの当時、一刀斉は自らの流儀を一刀流とは称していない。流派の名すら余り吹聴する事も少なく、その流名を無元流と称していた。無元__何やら仏教風、と言うよりはどこか東洋思想、それも何かインド哲学の匂いが漂うような言葉である。この頃、日本には様々な外国文化が流入していた。ポルトガル商人の手で種子島に齎された鉄砲を始め、キリスト教、更にコペルニクスの地動説に至るまで、様々な新思想が入って来ている。インド文化はそれに遡る事千年、仏教伝来とともにこの国に渡来しているが、この時代には更に多くの異文化が入り乱れ、ポルトガル船に乗って商人や宣教師だけでなくアフリカ人(正直この言い方は好きではない。人類発祥の地はアフリカであり、厳密に言えば全ての人間がアフリカ系と言えるはずではないか)やバラモン僧までが亡命したらしい。それまで中国を経由地として資料のみの存在であったインドの現物が、とうとうイスパニアの交易船に乗ってゴアから本邦に遙々直輸入された訳である。古くからの日本語の中にも外国語は入り込んでいるらしく、首級の事を"しるし"と呼ぶのは、インドで頭を意味する"シールシャ"に由来すると言う説がある。個人的には、かまどを意味する"へっつい"も、ギリシア神話に登場するかまどの神ヘスティアから来ているのではないかと思うのだが。法隆寺の柱はパルテノン神殿の影響があるとも言われているから、満更あり得ないとは断言できぬであろう。

話が大分脱線した。一刀斉が称した無元流と言う流名がインド思想の影響であると言うのは只の個人的な直感であるが、有るとも無いとも言い切れないであろう。一刀斉自身、別にインドを意識した訳ではないのかも知れないが、関連を疑っても良さそうだとは思う。何せ、江戸初期に隆盛を極めた異端の流派、無住心剣術こと夕雲流などはその伝書の内容から、前時代に入ってきたキリスト的一神教の思想から影響を受けたのではないかとの説を唱える研究者も有る位だから、天竺のヴェーダンタ哲学位ならばまだしも可能性があると言って間違いではあるまい。


 


 

典膳は見る間に腕を上げた。元々素質はある上に、善鬼とは違うが矢張り生真面目な性格で兵法の修行にのめり込む様が傍から見ていても手に取る様に分かる。善鬼の情念はどこか屈折した所が有るのに比べ、典膳の情熱は素直であった。元々武士階級の生まれで劣等感などは無かったし、兵法が好きでもあった。その素直な典膳に、善鬼は日々一刀斉一門たる心得を仕込んだから、この世間知らずの若武者も見る間に激烈な実戦主義に染まってきつつあった。彼が後年、小野次郎衛門忠明を名乗ってからの度を越した振る舞いは、この時善鬼によって仕込まれた精神に根が有ると考えられる。

「試合となれば、必ず相手の息の根を止めよ」

善鬼は木刀で稽古を付けながら、典膳に言い聞かせた。

「人間とは油断のならぬものじゃ。たとえ試合に敗れたとて、五体満足で返せば何を言い出すか知れたものではない。自分はこの程度だが、相手は骨を砕かれて暫く寝込んだじゃの、手加減してやったので今も生きておられるだのと平気で言いふらす。そうなってはならぬ故、他流試合を行うとあらば必ずとどめを刺せ。殺さぬまでも腕の一本二本は打ち砕いて二度と太刀など握れぬように念を入れて打ち据えよ」

「は__」

体に傷を付ける事はない、とあしらう様に相手をしてくれた一刀斉とは違い、善鬼の稽古は過酷を極めた。骨を砕くとまでは行かぬが、その組太刀は激しく、一撃で倒れこむほどに打ち据えられるのであった。

「膳鬼殿、今一本お願い致す」

それでも典膳は立ち上がり、善鬼に対して挑んで行く。それはまさに試合を挑むような気迫であった。太刀筋でも気力でも今の典膳では善鬼の敵ではない。しかし、何度強烈に打ち込まれ、板敷きに、地面に這いつくばっても典膳は決して怯むことなく善鬼に向かって行くのであった。

"こ奴__"

善鬼も、典膳と言う若者を見直さなければならない。見た目は線の細い、どちらかと言えばひ弱にも見える典膳のどこにこれほどの気概が秘められているのかと首を傾げるほどであった。

"小癪な"

自分の口に、不思議な微笑が浮かんでいるのを善鬼は気付かない。

"小僧、やりおるわい"

正直小気味良さを覚えながらも、善鬼は内心呟いた。最初、典膳の容貌を見た時にはその繊細な顔立ちにどうせ口だけ、気持ちだけで意地を張っているだけで、少しばかり痛めつけてやれば諦めて戻るであろうと高をくくっていた善鬼だが、本格的な修行に必死で食らいつく典膳の姿に、正直畏怖を覚えつつあった。それはどういった感情であろう。嫉妬があったことは紛れもない事実であろう。しかし、それだけではない。厳しく指導しても音を上げない後輩に対して、先輩は自然と好感を抱くものだ。善鬼が典膳に対して抱く心情は、愛憎綯い交ぜになった、複雑な感情であろう。

善鬼のしごきに耐え、全身に傷を受け、息を切らせながら立ち上がる典膳の姿に、一刀斉もかなり心を動かされたようであった。

世間には、相も変わらず一刀斉に試合を挑む腕自慢の猛者たちが引きも切らない。今では善鬼が彼らの相手をするのが習慣になっていた。彼は相変わらずの殺人剣で挑戦者たちを血祭りに上げ続け、それを目の当たりにした典膳も発奮し、その凄まじい勝ちっぷりに鼓舞されて益々修行に熱を入れるのであった。典膳にとって、目下の所目標としているのは一刀斉よりは善鬼であった。善鬼も正直戸惑っている。今までは師の一刀斉を目標にひたすら追う立場であったのが、今度は追われる立場になったのである。

しかし、一刀斉にとっては今のところ全てが順調に、良循環を起こしていると言って良かろう。

「善鬼殿、今度の試合はそれがしにお譲り願えませぬか」

典膳がこのように懇願するのもそう遅くはなかった。

「そなたにはまだ早いわ」

そう言って諭すのは一刀斉である。

「如何にそなたが腕に自信を付けたとはいえ、他流試合とはそのような物ではない。相手は巷の修羅場を生き抜いた海千山千の世業者ばかり、練習の技がそのまま通用する訳ではないぞよ」

それも善鬼の体面と心情を慮っての配慮だった。この頃の一刀斉には、まだそういった気配りがあった。善鬼も、一刀斉の心遣いが嬉しかった。

一刀斉は典膳の成長を喜んだが、善鬼の立場は複雑である。

"わしは、どうなるのか__"

一人、善鬼は悩む事が多くなった。

"いつになったら、師匠をたおせるのか"

元々、それが目的で一刀斉の弟子として付いて来た筈だった。それがいつの間にか、世間並の和やかな師弟関係になり果てているような気がする。そして、自分自身もまた、この状態に浸っているような気がした。

"このような事では__"

善鬼には分らなかった。

彼は今、幸せであった。師匠の一刀斉には心から感謝していた。貧しい農家の倅に生まれ、村ではその気性を持て余して合戦に参加したが思うような結果を得る事ができず修験道に身を投じた彼が、今や全国の武芸者たちから一目置かれる名士として名を馳せている。全ては師である一刀斉の御蔭だった。

"なればこそ__"

善鬼は、敬愛する師に特別な存在であって欲しかった。一刀斉が彼を門下に組み入れたのは、自分を倒させる為ではなかったのか。自分の技を善鬼に叩き込み、最後には命懸けで雌雄を決して相承の器を試すのではなかったか。もしも己が師に及ばず、斬られるとあらば本望であった。師を斃した暁には自分が一刀斉の後継者を名乗り、その道統を継ぐ。その筈であった。それが、自分を拾い上げてくれた師の恩に報いる唯一の方法であると善鬼は堅く信じていた。

そこに持ってきて、典膳という新参者が入り込んできた。典膳もまた、倒すべき一人であると善鬼は思っている。只、殺すだけなら今でもできる。否、今息の根を止めてしまわねばいずれは己が典膳に敗れ去るかもしれない。典膳の成長には目を見張るものがある。それでも構わない。彼が目指しているのは、この世で唯一絶対の境地であった。まだ典膳が未熟な内に彼を亡き者とするのでは意味がない。彼の誇りが許さなかった。典膳にその器を開花させ、その上で己の手で倒す。善鬼はそう決めていた。典膳が成長するまでは彼を手にかける訳には行かないのだ。

では、善鬼が一刀斉に勝負を挑む事を避けている理由は?

"何を恐れておる、善鬼"

彼が恐れているのは何であろう。師に斬られる事なのか、それとも__善鬼には、己の心が分らなかった。只、説明のつかない何かを自分は恐れているような気がしていた。

彼が恐れているもの__失う事を何よりも恐れているのは、今、この時であった。一刀斉を殺せば、その全ては消えてしまう。それを善鬼は何よりも恐れていた。

善鬼は幸せであった。

彼が恐れているのは、今、この幸せを失う事であった。しかし、本人はそれに気づいてはいない。

"一刻も早う、師に恩返しをせねば"

益々焦りを深める善鬼だった。


 


 

「そろそろ、典膳に試合を経験させてみては如何でございましょう」

そう切り出したのは善鬼の方であった。

「そうじゃのう」

厳かに頷きながら、内心安堵する一刀斉であった。

"善鬼め、変わりおったわ"

自負心の強い善鬼が後輩の典膳に試合を譲るなど、以前は考えられない事であった。矢張り、面倒を見ねばならぬ立場になると人間は自然と変わって来るのかも知れない。

「勝てるか?」

「相手にもよりましょう」

一刀斉の疑問に、善鬼は答えた。

「確かに典膳の技の冴えは数段上がっておりますが、奇策を弄する輩にはまだ危ないかと存じます。今度の試合、まず相手を見定めたうえで、それがしが出るか典膳に任せるかを決めまする」

今では師匠に代わって試合を取り仕切る善鬼は、一刀斉にとっても頼もしい存在だった。

「分かった。そちの裁量に任せよう……ごほっ__」

「師匠?」

咳込む一刀斉に、善鬼が声をかけた。

「師匠殿」

「案ずるな、心配ない」

一刀斉は善鬼に答えた。

ここの所、一刀斉は咳込むことが多くなった。典膳が一行に加わってから暫くしての事である。最初は只の風邪かと善鬼も気にはしていなかったが、それが一向に治らないのである。

"どこかお悪いのか"

流石に善鬼も心配になってきた。

「いや、大した事はない。その方らに心配をかけて済まんの」

「いえ__」

善鬼も頭を下げた。

「わが師の事ゆえ心配は致しておりませぬが、万が一師匠に倒れられてはこの善鬼、修行の甲斐が無うなりますゆえ」

「そうであったのう」

一刀斉も微笑を返す。

「そちの目当てはこの一刀斉を討ち果たす事にあったな」

が、その言葉とは裏腹に今の一刀斉には昔日の凄味など残されてはいなかった。

一刀斉に向けた善鬼の労わりの眼差しには、やるせなく物悲しい思いが混じっていた。


 

小金ヶ原異聞 ~一刀流創成記~    其の五


 


 

    
 


 

この度一刀斉一門に試合を挑んできたのはタイ捨流の井原五郎兵衛なる使い手であった。

タイ捨流というのは上泉伊勢守の門人丸目蔵人なる兵法者が編み出した一派であり、考え方次第では丸目派新陰流とも言えなくはない。柳生一門が自らを新陰流と称したり柳生流を名乗ったり、時には柳生新陰流、とも称するのだから、こういう考え方も有りである。柳生派新陰流、丸目派新陰流、疋田派新陰流、等である。話は今少し脱線するが、中国拳法に八卦掌という武術がある。この八卦掌、大きく分けて二つの流派が存在するのだが、以前は龍爪掌派、牛舌掌派と呼んでいたのに最近では程氏、尹氏と言われている。考えうる理由として、程廷家一門が牛舌掌を使わない訳でもないし、尹福の流派でも当然龍爪掌を教えたであろうからと思われる。それに擬えて新陰流もそのように呼んでも余り間違いではあるまい。

このタイ捨流は一応、刀だけではなく素手による無手勝流から様々な武器に至るまで平等に扱う古流の流れを継承してはいるが、流派としての剣術自体は正統派の太刀筋である。只、使い手本人の癖もあることで、この流派を名乗っているから正統派だの異端だのと最初から決めてかからない方が良いだろう。

「もしも、相手が正法の使い手とあらば典膳、そなたに任せよう」

試合の前日、善鬼は典膳に言い聞かせた。

「そちの太刀筋は最早世上の一流剣士と比べてひけは取らぬ。しかし、相手が邪法使いとなれば未だ他流試合の経験は浅いそなたには荷が重かろう」

「はは」

「典膳、そちも稽古では他流との手合せ位はしたかもしれぬが、このような、命を賭けた果たし合いとなると話は全く違ってくる。勝つ為とあらば相手も手段を選ばず何をして来るやも知れぬ。場数の少ないそたなでは普段の力を十分に発揮できぬやもしれぬ」

「承知いたして候」

善鬼の訓辞に、典膳も熱心に耳を傾けている。善鬼と典膳では得意不得意が違う。典膳の太刀筋は誠に見事なもので、剣術に限って言えば既に善鬼とも互角に近い業前を身に着けてはいる。元々剣術家としての修練は積んでいたので刀法の技術は下地が出来ていたのだ。しかし、彼の剣技は余りに素直でまとも過ぎるのである。それに対して善鬼の方は一刀斉に弟子入りするまでは武術などまるで習った事もなく、その代り修験道で培った精神力でどのような場合にも冷静に対処できる胆力を身に付けていたし、何より今では他流試合の経験も豊富にこなしているから、相手が変則の戦術で掛ってきても慌てる事無く対処できるのであった。

要するに、率直な正統派の典膳に対し、ひねくれ者で腹の据わった善鬼という、普段の人柄がそのまま技の個性にも反映されている訳である。

実際、こういった命がけの真剣勝負では相手も何をしてくるやら知れたものではない。死人に口無しの諺通り、相手が如何に卑劣な手段で挑んでこようとも死んでしまっては何をどうする事も出来ないのだ。

年代は少しばかり下るが、柳生但馬守宗矩の弟、柳生十佐衛門宗章にこのような逸話がある。真剣勝負にあたって宗章は、最初から相手の隙を窺って試合が始まる前に斬り殺してしまった。それは卑怯ではないかと訝る見物人に対し、自分は命が掛っているのだ、周りで見ているだけの人間が無責任な事を言わないで頂こう、と答えたらしい。当然、誰もが一言も返す言葉は無かったのである。尤も、彼は柳生一門の血族であり、既に十分な地位を得ている。いわば、反則負けでもなんでも防衛すれば良い訳で、手段を選ばず敵を亡き者としても差し支えないが、逆の立場、名家柳生家に挑戦する者が同じことをやれば当然穏当には済まなかったであろう。正々堂々と刺客を送るような、武芸者として真っ当な手段はまだしも、将軍家兵法指南という立場を利用して相手を非難し、社会的に抹殺するという陰険な方法にでも訴えかねないのだ。人間社会で生活する以上、こちらの方が余程恐ろしいと言わねばなるまい。

「明日の試合、わしが出るにせよそなたに任せるにせよ、いずれ目指すは唯一つぞ」

善鬼の言葉に、典膳は頷いた。

必ず、下手をすれば卑劣な手段に訴えてでも勝つ、具体的には相手の息の根を止める。

他に目的はないのである。


 


 

当日。

試合会場となった原野に介添えの者を三名ばかり引き連れ、井原五郎兵衛が姿を現した。

少し遅れて、一刀斉と二人の弟子達が到着した。

「井原五郎兵衛でござる」

見るからに涼やかな容儀の井原が、一刀斉に対して恭しく叩頭して見せた。

「伊藤一刀斉景久と申す__」

初対面の両名は、互いに名乗りを上げて礼を交わした。

「本日は試合を受けて頂き、この井原五郎兵衛、誠に恐悦至極に存ずる」

「いや__」

一刀斉が、判っていながら確認を取るように井原に言い返した。

「試合をお受けするはこの一刀斉に非ず、こちらの__」

「承知いたしており申す」

一刀斉に皆まで言わせず、井原は口を挟んだ。

「まずは、景久殿の前に御高弟の小野善鬼殿と立ち会う、それは重々弁えて居りますれば」

既に、一刀斉に挑戦する為には善鬼と手合せせねばならぬと言う評判は知れ渡っていた。

先程から善鬼は、井原の人を見極めんと必死に目を凝らしている。と言っても目を剥いてジロジロ眺めている訳ではない。井原の容姿、挙動、言動から気配まで、些細な事までも見逃すまいと微に入り細に渡って観察しているのである。

"わしが出るか、典膳を出すか__"

もし相手の見定めを誤れば大変である。うわべだけ行儀が良いからと言って試合まで正々堂々の勝負を仕掛けてくるかは分からないのである。もし、典膳を試合に出して後れを取る事になれば取り返しの付かない事になる。典膳が死ぬくらいなら兎も角、自分も含めた一刀斉一門の恥となるのだから真剣にならざるを得ないのである。無理に典膳に試合をさせずとも、どうしても見極めが着かねば自分が出れば済むだけの事だが。

"どうやら邪法使いではなさそうだが"

善鬼は一刀斉にも目配せで伺ってみた。どうやら師も自分と同じ考えらしい。

"典膳に、やらせてみるか__"

善鬼は踏ん切りが付かない。

傍らでは、典膳が顔を引き締めて控えていた。二人とも手には木刀、鉢巻きにたすき掛けの試合支度のいでたちだった。井原の供の者たちもいざという時に備えて、たすき掛けの用意は同じだった。

「さて__」

善鬼が逡巡している間に、井原が一刀斉から弟子の二人に目線を映した。

「早速試合を行いましょうず。小野善鬼殿は何れの御仁におわしますや?」

善鬼が答えようとすると、典膳が井原に向って口を開いた。

「小野善鬼にござる」

典膳の思わぬ言動に、思わず目を見開いて驚いたのは善鬼である。

「こちらが善鬼殿か、噂に聞いていたのとは随分違う御容貌なので勘違いいたした」

「斯様にひ弱な男とは思われませなんだか」

そのやり取りを、善鬼は呆けたように見守っていた。

「いやいや__」

井原が叶わぬと云う風に首を振った。

「話に聞いた所では善鬼殿は六尺豊かな偉丈夫で、その名の通り、顔付きも鬼のようであると伺っておりました故__」

と言いつつ、井原は善鬼の方を向いた。

「こちらの御仁かと思いこんで居り申した」

「いいえ__」

最初は緊張に顔を強張らせていた典膳も、このやり取りの間に開き直ったらしく、余裕をもって答えた。

「拙者こそが紛う事なき小野善鬼にござる」

善鬼は一刀斉の方に向き直り、指示を仰ぐような目で師匠を見た。

やらせてみよ__一刀斉の目はそう言っていた。

「されば__」

門人と思しき介添えの若者から受け取ったたすきで着物を締め、木刀を渡された井原は典膳の前に罷り出た。

「善鬼殿、尋常に勝負と参ろうや」

「承知__」

井原が典膳に相対した。

善鬼があれよあれよと見守る中で、試合が始まってしまった。

井原は木刀を中段正眼に構えた。典膳は一刀流の基本である、地摺りの青眼。

典膳は静かに呼吸を整えている。

両者、間合いを計っているようである。どちらが相手を己の間合いに取り込むか、それが勝負の行方を左右する。修験者上がりの善鬼はその気合いでもって相手を押し退ける様に自らの間合いをねじ込ませるが、師の一刀斉は静かに忍び寄るように取り込んで行く。初めて一刀斉と刃を交えた__真剣を手にしていたのは典膳だけだったが__時、典膳はまるでその姿を捉えることが出来なかった。善鬼との組太刀稽古では、その凄まじい気合いに押しまくられ、手を出すことも叶わぬ典膳だった。

そのいずれと比しても、目の前の井原は組みし易い相手である。

典膳は前に出た。気配を殺して静かに、まるで忍び寄るように井原に接近する。その姿は目の前に在りながら、殆ど手応えのない典膳に井原は戸惑っていた。

一刀斉も善鬼も、そして井原の門人たちも固唾をのんでこの試合を見守っていた。

もう、互いの太刀が届く寸前まで距離が狭まっている。井原は奇妙な感覚に捕われていた。理性では既に敵がすぐ近くまで接近していることは承知している。しかし、まるでその実感が湧かないのである。まるで、目の前に立っている相手が蜃気楼か何かのように感じられ、まともに目付ができないのだった。そして__

典膳が静かに間合いを詰めた。

木刀を掲げて太刀打ちの動作を思わせた。

その瞬間。

典膳は井原とすれ違う様に動いた。その時には、井原がその場に倒れていた。蹲った時には頭から血を流し、既に致命傷を受けていた。まだ息はあったが、恐らく手遅れである。すぐに手当てを施しても一命を取り留めることはかなうまい。

その場の一同、井原の弟子たち、一刀斉、そして善鬼も息を吞んで硬直していた。

顔色一つ変えず井原を見下ろしていた典膳は、まるでとどめを刺した事を確認したかのように一つ頷くと、一同に涼やかな表情を向けた。

その姿を目の当たりにした善鬼に、幽かな戦慄が走った。


 


 

善鬼は、昨日の試合を思い起こし、改めて神子上典膳という若者を見直していた。勿論素直に手放しで喜んだわけではなく、寧ろ警戒心を強めたといっても間違いではない。

三太刀だった。

典膳が井原に加えた手数は三発。善鬼にはそう見えた。まず、井原の拳に一太刀。二太刀目は背中、これは撃ち損じのようだった。そして最後の三撃目、これが致命打となった。頭蓋骨に切り裂くような鋭い一太刀、これで井原は完全にとどめを刺されたのである。その剣技は、流れるように滞りなく自然であった。単に動作の事を称してではない。如何に試合とはいえ、普通なら生身の人間相手にあれほど躊躇無く、無心に太刀を打ち込める訳ではない。しかし、典膳は些かの気遅れも無くやってのけた。まるで立ち木に打ち込みを加える様に、顔色一つ変えず全く気負う事もなく井原を打ち据えた。実戦では極限状態にあって練習では出来ない様な離れ業を発揮することもあるが、典膳が見せたのはそういう事ではなく、飽くまで自然に、普通に相手を討ち果たしたのであった。

悪刀善鬼と恐れられた彼ですら、典膳の非情さに僅かな畏怖を覚えたほどであった。

「典膳よ__」

試合の後、典膳は一刀斉に窘められた。

「初めての試合で良うやった、と褒めてやりたい所だが__」

「心得ております、師匠」

典膳は悪びれることもなく頭を下げた。

「身どもの軽率な振舞い、最早申し開く事とてございません。如何様にもお叱りは覚悟致しております」

「その言葉……ごほっ__」

「師匠?」

「案ずるな、いつもの空咳じゃ__」

案ずるなと言われても矢張り心配せざるを得ない。典膳も、同席した善鬼も一刀斉の身を気遣い眉をひそめた。

一刀斉の事も気にはなるが、普段通りに振舞う典膳を、善鬼は複雑な眼差しで窺っていた。まさに観察であった。初めて人を手に掛けた時には善鬼も心が平静ではいられなかった。しかし、典膳は些かの気負いも昂りもなく、普段と変わらぬ素振りであった。或いは、典膳が人を殺したのは初めてではないのかも知れない。

「どうじゃ、善鬼」

一刀斉が善鬼に質した。前日の、善鬼の指示を待たずに勝手に行動した件について、一刀斉は当人に意見を求めたのである。

「それがしに、別段申し上げることは御座いませぬ」

善鬼は素っ気無く答えるのみであった。

「われら門人の仕置については全て師匠の御一存に委ねておりますれば、典膳と同じ門弟のそれがしに言うべき事とて無いものと心得ております」

「左様か」

一刀斉も、善鬼の内に湧き起こった新たなる典膳への情念を察知してはいた。


 


 


 


 


 

小金ヶ原異聞 ~一刀流創成記~    其の六


 


 


 


 

「善鬼殿」

典膳が善鬼の前に立って頭を下げていた。

「善鬼殿、御勘弁下され__」

「何の事じゃ」

分かっていながら、善鬼はしらばくれて答えた。

「この度の試合、善鬼殿の裁可を待たずして勝手な振る舞いに及びましたる事、何と詫びてよいものやら……」

「その事なら良い」

善鬼は無造作に言っただけであった。

「師匠殿がそなたに言い聞かせた故、これ以上わしが言うべき事など無いわ」

こういう時、後輩が先輩に負い目を作った時には優しい言葉の一つもかけてやるか、逆に叱り飛ばすくらいの事でもした方が後腐れが無い物だが、善鬼にはそういう気配りが出来ないらしい。否、出来ないというよりは意識的に蟠りを作ろうとしているかのようであった。善鬼とはそういう性格でもある。どちらかと言えば根に持つ、というより寧ろそういう禍根を抱く事により、己の発奮材料にする。陰険と言えば陰険ではあるが、そういう恨みっぽさが彼の原動力に成っている事も紛れもない事実であった。

「じゃが__」

善鬼も一つだけ典膳に言うべき事があった。

「昨日の試合を目の当たりにしてわしも考え方を改めたわ」

善鬼が何を言わんとしているのかが掴めないのか、典膳は黙って次の言葉を待っていた。

「典膳よ、わしは正直そなたを見くびっておった。その方がひ弱な、まだ試合など出来ぬ半人前じゃと思い込んでいた」

善鬼はこういう点で正直であった。

「だがあの試合に臨んでのそなたの振る舞い、些かの動揺も見せなんだ腹の据わり様にわしも改めて考え方を変えねばならぬと思うた」

「善鬼殿……」

「これからは、わしとそなたは対等の立場じゃ。今迄のように兄弟子面で見下すような傲慢な事はない」

「もったいなき御言葉にござる」

「ただし__」

善鬼は改めて語気を潜めて言った。

「代わって対等の敵とも見なす事にした。今迄わしの倒すべき目標は師匠殿のみと思い定めておったが、今日からはそなたもその一人ぞ」

「過分なる御言葉、身に余る栄誉でござる」

裏表のない善鬼の言葉に、典膳も心からの謝意を口にした。

このやり取りを蔭から窺っていた一刀斉が、安堵の想いを実感した。どうやら善鬼は今回の件については既に水に流すつもりらしい。粗暴で意固地だが、そういう点では潔い所もある善鬼だった。少なくとも、腹に何かを蔵して人を陥れるような性格ではない。寧ろそういう不正が許せぬ、度を越すほどに恨みを抱くような性格でもある。数年前に死亡した、織田右大臣がこのような人柄であったと聞いている。

これで、一刀斉が抱いていた不安の一つは解消された。だが、新たに別の危惧も一刀斉にはあった。馬鹿正直な善鬼の性格からして、典膳に言った事は只の激励や照れ隠しではなく、紛れもない本心であろうと察せられたからである。或いは、本心ではなくとも口にした以上はその言葉に責任を感じるであろう。


 


 

その後、善鬼と典膳は互いに腕を競い合うように修行に励み、益々技量を高め続けた。

一刀斉の両刀、無頼の凶剣小野善鬼、非情の剣辣神子上典膳の名は本朝に知れ渡り、今では一刀斉一門に挑戦する輩は真実命を落としても構わないという糞真面目な求道者か、余程身の程知らずな愚か者だけとなった。少なくとも軽い虚栄心からこれに挑もうなどと云う事を考える者は居なくなったようである。

「近頃試合から遠ざかっておりますな」

「油断するでない」

典膳の軽口に、善鬼は怖い顔で言った。

「世の中は広い。いつ何時我ら一門に勝負を挑む兵法者が出て来ぬとも限らぬ心して掛かるが良い」

「あい分かり申した」

凶悪無残な善鬼の恐剣、涼やかな眼差しで相手を斬捨てる氷の戮士典膳、この二人に巷の剣客どもは恐怖の噂を掻き立てた。

二人の稽古もおさおさ怠りなかった。

単に腕を磨いて一門の名誉を守り抜くなどという生易しいものではない。遅かれ早かれ何れは戦う宿命にある二人だ。稽古の中から、少しでも相手の弱点を見つけ出そうと必死であった。

組太刀稽古の最中、善鬼は密かに殺気を典膳に送る時がある。それは相手に察知されない、実戦で使用する殺気だ。典膳は気付かぬようである。それが芝居なのか本当に典膳は己の殺気に気づかぬのか、善鬼はしかと分りかねた。

「善鬼殿__」

露骨な殺気に対しては典膳も反応する。

「そのように恐ろしい気合いを込めんで下され」

苦笑いで典膳がやり過ごす。

「何を言うか、典膳」

善鬼も言い返す。

「実戦にあっては敵がどのように来るやもしれぬのだぞ。この位で怯んで居ってどうするか」

そう言いつつも、典膳がどこまで本気であるのか善鬼には測りかねる所であった。互いの手の内を探り合いながら、善鬼は典膳との組太刀を必死に続けるのだった。

しかし、苦楽を共にして修行に励む同門同士、益々目に見えない絆は深まって来る。だが、その絆が逆に彼らを破局に誘おうなどと、誰が予測し得たであろうか。

善鬼は、典膳が自分と同じ、兵法に全てを賭けた求道者であると信じていた。典膳自身もそうであると、無邪気に思い込んでいた。だが、その思い込みが幻想であると思い知らされる時が来たのであった。

時に天正十七年。九州をほぼ制圧した豊臣秀吉は天下統一を目前まで達成し、とうとうその矛先を関東の覇王北条家に向け始めたのであった。

典膳の主家である里見家も、否応なくその渦中に在った。長年の宿敵とも言うべき北条氏を討伐するというので秀吉と協定を交わしたのは良いのだが、その一方で以前の盟友で今では仲の悪い土岐家ともいざこざを起こし、里見一族は現在万喜城を攻めに掛っている最中であった。

「師匠殿」

一刀斉の前に、典膳がまかり越した。

「この度は暇を乞いに参りました」

「よい、皆まで申すな、典膳」

一刀斉にも事情はよく分る。

「そなたの気持ちはよう分かった。上総に帰るが良い」

「師匠殿__」

ここ数年、一刀斉の衰えは益々進行していっている。頬のこけた、はかない風貌で激励する一刀斉の心遣いに、典膳は感動を抑えきれない。

「行くが良い、典膳。ただし、事が済んだら必ずや戻って参れ。いつでもわしらは供に在るという事を忘れるでないぞ」

「師匠殿……」

典膳は声を詰まらせた。

「典膳」

善鬼も典膳に一言掛けた。

「分かっておろうな、貴様の帰る場所はここだという事を。わしと師匠殿の在る所がそなたの帰る場所じゃ」

「善鬼殿……」

典膳は、今にも涙を流さんばかりであった。

世間の、所帯の大きな流派には彼らの気持ちは理解できぬであろう。師一人、弟子二人の一門にあって、この三名は今や切っても切れない堅い絆で結ばれていると言って良かった。しかも、命を賭けて腕を磨き、一門の名誉を守り抜いてきた同門である。その結びつきも自然に強くなっていたのである。

「必ずや、戻って参ります」

「しかと約束したぞ」

善鬼は典膳の手を握り締めた。

「良いか、わしとそなたは師匠の跡目を争う宿命の間柄でもあるのだ。戻れ、戻って必ず他日雌雄を決しようぞ」

「はは__」

典膳はとうとう泣き出してしまった。

「典膳、そなたの命はわしのものぞ。わし以外の者の手に掛ってあい果てる事など、断じて許さぬ、然様心得ておけい」

「構えて__」

固い約束であった。そして最終的には悲劇の端緒ともなる約束であった。だが、この時三人の誰もがその結末を知る由もないのである。


 


 

典膳は旅立った。

後には善鬼と一刀斉が残された。

典膳が居なくなって、善鬼の心にぽっかり穴が開いたようであった。寂しさ、遣る瀬無さ、否、それだけではない。

矢張り、自分と典膳は違うのだ。善鬼はそれを噛み締めていた。典膳には帰る場所がある。故郷があり、彼を必要としてくれる主家が有るのだった。善鬼にはそれがない。自分を必要としてくれるのは師匠である一刀斉だけ、帰る場所は師の居る所だけなのである。

彼の生まれ故郷は貧しい農村である。八人兄弟の五男として生まれ、その激しい気性のせいで村の持て余し者であった。実家でも彼を疎んじ、家を継いだ兄からはいつも冷たい目で見られていた。利かん気で人の言う事を聞かず、村の暴れ者の善鬼は常に周りから疎外されていた。その腕っ節で身を立てるべく参加した戦場では思うようにならず、とうとう浮き世を離れて山伏になるしかなかったのである。いざ合戦となると役立たずの善鬼を、人は軽蔑した。

「見よ、生まれは争えんのう」

士分階級の侍達は優越感と安堵をもって戦場で震える善鬼を見下すのである。時代は下克上の真っ只中、実力さえあれば誰でも、幾らでものし上がれる御時世だった。上は室町将軍足利義昭が織田信長に追放され、下の方でも素性卑しけれど実力有り、を吹聴する成り上がり者が大手を振って横行する時代である。逆にいえば上に在る者にとっては常に引き摺り下ろされる恐怖を抱かねばならない不幸な時代なのである。それだけに、臆病者の善鬼は彼ら地侍にとって侮辱すべき格好の相手だった。善鬼を嘲ったのは侍ばかりではない。寧ろ同じ階級に属する者達の方が善鬼に辛く当ったのである。

「あのような臆病者が居るからわしら足軽が侍どもに侮られるのじゃ」

同じ下層階級出身だけに、善鬼の不甲斐無さは見るに耐えぬのであろう。それに、善鬼が怯えるのは合戦の時だけで、平素はその巨体と荒っぽい気性で周囲の者たちを平伏させていたから、その恨みを込めてここぞとばかりに誰もが善鬼の事を非難するのである。普段の心掛けが悪いと言えばそれまでだが、自尊心の強い善鬼としては耐え難い屈辱であった。

そして修験道に身を投じた善鬼は伊藤一刀斉に見出され、漸く自分の居場所を与えられたのである。

典膳も同じだと思っていた。だが、彼は違った。自分とは、生まれも育ちも、そして現在に至るまで何もかもが違う人間だという事を嫌というほど思い知らされたのである。

裏切られたような想いだった。

"典膳__"

「善鬼よ」

草原に寝転んで、満天の星空を見渡す善鬼に、一刀斉が声をかけた。

「また、二人だけになってしもうたのう」

一刀斉には善鬼の気持ちが良く分かる。彼もまた、善鬼と同じような階層に生まれただけに、気持の通ずる所はあるのだ。伊豆大島に生まれ、板子一枚にすがって伊勢まで流れついて以降、波乱の生涯を送った一刀斉である。矢張り、一刀斉にとって掛け替えのない弟子は典膳ではない。善鬼だった。

「典膳は、戻って来おるかのう」

「戻って参ります」

星空を見上げたまま、善鬼は力強く言い切った。

「そうか__ぐほっ__」

「師匠?」

またしても一刀斉が咳込んだ。

「心配いらぬ、いつもの事じゃ」

「師匠……」

「どうじゃ、善鬼よ」

咳の止まった一刀斉が、善鬼に言った。

「そろそろ、決着を付けぬか?」

「決着?」

「うむ__」

一刀斉は頷いた。

決着__一刀斉と善鬼の間の決着、それは当然刃を交えての師弟対決であった。

元々善鬼はその為に一刀斉についてきた筈だった。

「そなたの業前は既に申し分無い。ここらで一つ、決着を付けぬかのう」

善鬼は答えず、黙っていた。

今、一刀斉と戦えば十中八九、善鬼の勝ちであろう。一刀斉の言う通り、既に善鬼の腕前は一刀斉を凌ぐほどになっている。加えて今の一刀斉は年齢とともに体調を崩し、その力は目に見えて衰えてきていた。今試合えば間違いなく一刀斉に勝つ筈である。

だが__

「師匠の仰せなれど、慎んでお断り申し上げまする」

「ほう」

一刀斉も淡白に答えるだけであった。

「何故じゃ」

「それは……」

善鬼は答えに詰まった。

「それがし、未だ師匠殿に打ち勝つ自信が御座いませぬ故、この善鬼、その下知には従いかねまする」

「貴公の腕前は既に天下に鳴り響いておるではないか」

「されど、師匠と手合せするにはまだ自信が御座りませぬ。申し訳無う存ずるが今少しお待ち願えませぬか」

「__そうか」

一刀斉はそう言ったきり、何も言わなかった。

「さればこれ以上申すまい。そなたにその気が無いとあらば仕様の無い事よ」

「面目次第も御座りませぬ」

何故、善鬼はこのように当たり障りのない、というより見え透いた遁辞で一刀斉との対決を避けたのであろう。

当然の事ながら、一刀斉を斬りたくなかったからである。しかし、善鬼本人はそうは思わなかった。

"典膳との、約束が有る"

そう思っていた。いや、自分にそのように言い聞かせた。

"典膳__"

善鬼は星空を見上げた。

"戻って来い。必ず戻って参るのじゃぞ、典膳よ"

善鬼は思い出していた。

いつか交した、典膳との他愛ない会話である。

「善鬼殿」

典膳が善鬼に問いただした。

「善鬼殿の、小野という姓は如何なるいわれで御座るか」

「いわれか」

そう言われても、善鬼には困ってしまう。

「いわれなど無いわ」

「元からの姓にあられるや?」

「そのような訳はなかろう」

善鬼も、正直に答えた。

「わしに元々氏素性など無い。小野というこの名字も、師匠殿が勝手に付けただけの姓に過ぎぬ」

「左様か」

典膳も納得したようであった。

「何ゆえに、斯様な事を問うのじゃ」

「いや、小野という姓は__」

典膳が答えた。

「拙者の母方の姓と同じにござってな」

やや照れたように典膳は答える。

「それで、自分と善鬼殿は遠い親類筋にあたるのではないかと思い、伺いましたる次第」

「なんじゃ」

普段は常に顔を強張らせたような善鬼も、思わず苦笑いを洩らした。

「これは師匠殿がわしに与えてくれた姓じゃ。元々わしのものではない」

「師匠殿が__」

典膳は感慨深げに言った。

「考えてみますれば、我らがこうしてここに居りまするのも全て師匠を介した縁にござる。されば、矢張り師匠は我ら二人を合わせるべくしてお引き合わせ為さったので御在ましょうや」

「ふむ__」

善鬼は、その時何も答えなかったが、今となっては典膳の言う通り、全ては一刀斉が計らった物ではなかろうか。

「矢張り、師匠殿は我らにとって氏神の化身ではありますまいか」

「かも知れぬな」

善鬼も、典膳の言った事を今一度噛み締めていた。

全ては一刀斉を介して始まった。

そう、今ある全ては。


 


 


 


 

小金ヶ原異聞 ~一刀流創成記~    其の七


 


 

  
 


 


 

「典膳、よう戻った」

久しぶりに顔を合わせた典膳を、一刀斉は破顔して迎えた。

「ご心配おかけ致しましたること、御容赦願いまする」

「典膳」

謝辞を述べる典膳に、善鬼が声をかけた。

「信じておったぞ、わしは」

「善鬼殿」

典膳が善鬼に何とも言い難いまなざしを向けた。

「当然にござる。拙者、善鬼殿以外の者の手になど絶対に掛りませぬ故、安心して下され」

「左様か」

善鬼の言いたかったのはそういう事ではなかったが、兎も角典膳が戻ってきた事で一安心した。

「戦の方は残念じゃったのう」

「誠に__」

典膳の奮戦も空しく、万喜城は遂に落ちなかった。その一方で里見家の怨敵北条氏は壊滅の憂き目にあった。

秀吉に抵抗して御家芸の籠城戦で戦う北条家だったが、相手が全国の大名全てでは一溜りもなかった。武田信玄、上杉謙信など、名立たる武将の猛攻に耐えてきた難攻不落の小田原城も城取り名人と言われた秀吉の戦略と、天下の総兵力を向こうに回しては最初から勝敗は見えたも同然である。半年足らずの抵抗も虚しく小田原評定という故事だけ残して敢え無く落城、こうして最初の戦国大名と言われた北条早雲の築いた一大関東勢力は、戦国時代の最後を飾って滅亡した。

北条氏は滅ぶべくして滅んだとも言える。

ここに秀吉の天下統一は完成し、六十余州全ては豊臣家の支配下に入ったのである。

「何やらややこしい事になっておるようじゃのう」

北条氏とともに土岐氏も秀吉に掃討され里見氏としては喜ぶべき事態の筈だったが、事はそう思い通りには進まなかったのである。土岐氏との戦に執着し、小田原攻めに遅参した里見義康の態度に秀吉が激怒し、何やら雲行きが怪しくなってきつつあるのだ。

「まあ良いわ、誰が天下を治めようと、我らには関係のない話よ」

善鬼は言ったが、実は彼らの運命も、天下統一の余波を受け大きく歪んでいったのである。


 


 

典膳に仕官の話が持ち上がったのは文禄元年も暮の話であった。出仕先は徳川家、北条家滅亡後に豊臣政権から任命された関東の新しい領主だった。

持ち込んできたのは主家の里見家である。この時、秀吉の勘気を被った里見家は改易の危機にあったが、徳川家康が間に入ってとりなし、領土を削られたものの存続を許された。何やら八百長臭い話である。秀吉と家康の間であらかじめ交わされた狂言の可能性もある。

典膳は余り乗り気ではなかった。別に理由は無い。まず、新たに乗り込んでくる新領主に鞍替えするのは余り良い気はしなかったし、何よりも一刀斉一門から離れたくはなかった。

「それがしは今、伊藤一刀斉の門人でありますれば、その身の振りに関しては全て師の一存に任せており申す」

事実その通りだったし、仕官を断るための口上でもあった。

「されば、一刀斉殿に口添え頂こう」

里見家は使者を送った。

一刀流の伝書によればこの時、徳川家康が一刀斉の高名を聞き、出仕を望んだとあるが、まずあり得ない話である。家康には次のような逸話がある。ある時城内に乱心者が現れ、抜刀して暴れ回った。この時、最近召し抱えた遠州出身の兵法者が一人で立ち向かい、素手で乱心者を取り押さえた。家中ではその武勇を褒め称え、大層評判となったが一人不快な顔をした者がいた。他ならぬ家康であった。彼の言い分によれば、

「刃物を振り回すような者に対しては、人数を揃え然るべき道具を持って取り押さえれば済む事である。然るに一人で、それもわざわざ素手で取り押さえようなどと言うのは己の腕前を誇ろうという見栄に過ぎぬ。斯様な者がおっては家中の団結を乱す故、即刻放逐せよ」

とこんな具合であるから、わざわざ腕自慢の武芸者など雇おうと言い出すとは考え難いのであった。

徳川家康が常盤橋において行われた師岡一羽斉の弟子、根岸兎角と岩間小熊の有名な同門対決を江戸城から観覧したと言われるが、別にその勝者を召抱えようなどとした訳ではない。花火でも見物するような気分であったのだろう。

柳生石舟斉との逸話も怪しいものだ。家康が無刀取りを見てみたいと所望し、自ら打ち込んできた太刀を石舟斉が素手で取り上げて面目を施したというこの逸話、仮に事実だったとしても、別に武芸を尊んで召し抱えた訳ではあるまい。考えられるのは、この時家康が名人として名高い石舟斉の体面を重んじ、自ら引き立て役を買って出た、少なくとも本人はそう思っていたという事である。一方、石舟斉もその腹の底を機敏に察し、相手の気遣いに感謝して見せた、そういった二重三重にとぐろを巻いた回りくどい社交辞令の表れだったのではないか。実際、江戸時代にはこのようなまるで意味もないと思われる無駄な仕来たりや法律がしこたま設定され、天下の士民から精気を削り取ることで長期に渡る安定政権を築いたのである。家康は肩書や世間への名声、或いは身分に拘り、いわゆる免許皆伝も剣術のみならず、馬術や砲術など、多岐に渡って習得したが、実力主義などという物を最も嫌った人でもある。寧ろこうした第三者の評価こそが社会的に重厚な人間の証明であって、他者を見下し己の力を周囲に誇る実力主義などは浮華なる虚栄であると信じていた。一面の真理は有るであろう。良かれ悪しかれ現在の日本における肩書社会の礎を築いたとも言える。馬術と言えば織田信長も馬が好きで盛んに乗りこなした。しかし、別に取り立てて師範など雇わず自分で馬を責め立て、輪乗りという難しい操馬法も独力で身に付けたが馬術など一切習わず、生涯無免許運転を通したのだった。

では、家康が典膳を仕官させたがる理由とは何であろうか。別に徳川家の方とすれば誰でも構わない、兎も角地元の出身者を募って召抱えようという話だったのだ。この頃、一応秀吉との一件で里見氏に恩を売ったとは言え彼らの旧領の一部を配下に治めるのである、上総を含めた関東の新領主に赴任した徳川家としては生え抜きの地侍を何人か新規採用し、地元の不満を和らげる必要があった。知行を減らされた里見家としては有難いとも悔しいとも言い難い話だった。要するに、典膳を選んだのは徳川家ではなく里見家の方である。里見家からすれば泣く泣くやった口減らしであった。それでは何故、典膳なのだろう。一つは素朴な見栄であった。如何に新たな領主とは言え、三河の泥田から這い出してきたような肥臭い成り上がりに侮られてはならじと、高名な伊藤一刀斉の門人として一族一党でも世間に名の知れた神子上典膳に白羽の矢を立てたのである。

里見家の使者から事情を聞いた一刀斉は快諾した。矢張り、人間は落ち着くべき場所を得るのが一番なのである。長い放浪生活の末、彼はその事に気づいた。既に天下は統一され、時代は安定期に入ろうとしている。

典膳が仕官してしまったとすれば、善鬼はどうすれば良いのだろう。何、無理に仕官する必要はあるまい。第一善鬼の性格からして宮仕えなど出来る訳はない。これだけ彼らの知名度も上がったのだ、どこぞで道場でも開けば食うに困ることはあるまい。

これで一刀斉一門も解散である。唐突な感じもするが、もののはずみで巡り合った三人が、もののはずみでそれぞれの道を行く。これも人生ではないか。二人の弟子たちは、自分の為に本当に良くやってくれた。今の一刀斉の名声は、半分は善鬼と典膳の力に寄るところが大きい。特に善鬼には世話をかけた。

一刀斉には心残りが無い訳でもない。

"善鬼めに本懐を遂げさせてやれなんだか"

それを思うと後ろめたい気持ちも無いではない。

善鬼に嫁を持たせよう。

ふと、一刀斉は考えた。今回の仕官話で恩を売っておけば里見家もそのくらい世話してくれるであろう。氏も素性もない善鬼だが、当今その程度の事は問題ではなかろう。天下様ですら百姓の出なのだ、その位はどうという事もない。別に然るべき身分の姫君でなくとも、家臣の誰かから適当な娘を選んでもらえばそれで良い。どうしても無理なら百姓の娘でも良かろう。あの膳鬼が口うるさい女房にどやしつけられ、巨躯を縮めて畏まっている姿を想像すると、一刀斉の口元は自然と綻んだ。

自分はどうするか、どうせ老い先短い年齢である。どこかに庵でも結んでひっそりと暮らそう。近所の子供に剣術でも教えてのんびりと余生を送るのも悪くはない。

何という変わり様であろうか。

それはもう外見にも表れていた。病み衰え、痩せこけたその姿からは凄味も貫録も伝わっては来ない。既に一刀斉は完全に往年の覇気も闘志も失って、今では只の隠居になり果ててしまったようである。


 


 

「__という次第じゃ」

一刀斉は善鬼、典膳の両名を呼び、上座から仕官に当たって推薦状を用意したと、その旨を伝えた。戦場往来の荒武者ならば旧主から戦働きに応じて感状が下されるが、兵法者の場合それが無いので師匠が推薦文を書き上げるのであった。

善鬼も典膳も、顔を伏せたまま師の話を聞いていた。一刀斉にも、彼らの気持ちは痛いほど良く分かる。

"そなたらの為じゃ"

この年まで住居も定めず家庭も持たず、世間に背を向けてひたすら孤高の身の上を貫いた一刀斉が実感した、痛切な世間智であった。若い彼らに同じような苦労をかけたくはない。一刀斉の親心であった。しかし、親の心子知らずと云う諺の通り、善鬼も典膳も納得しかねるようであった。

"致し方あるまい"

彼らの意見も聞かず勝手に話を進めるのは気が咎めるが、こういう事は時期を逸してはまとまる話もまとまらなくなってしまう。余り待たせると、里見家の方で別の誰かを推挙するかもしれない。事は迅速な方が良いのだ。いつかは感謝してくれるであろうと一刀斉も思った。別に感謝せずとも良い、正直な話、彼自身が疲れてしまったのだ。

「典膳、それで良いか?」

すぐには答えず、典膳は顔を伏せたまま黙っていた。

善鬼は傍らで典膳の次なる言葉を、耳を澄ませて待っていた。

勿論、断る事を期待して。

「__承知仕りました」

苦しい決断を下した、典膳の回答である。

善鬼は目の前が真っ暗になった。

"矢張り、違うのか__"

善鬼は思った。

典膳は自分と違う。所詮、主持ちの侍なのだ。仲間だと信じていた典膳に裏切られた気分であった。善鬼には、一刀斉と典膳しか居ないのだ。単に身分や素性の事だけではない。善鬼は凡そ人から好かれる性格ではなく、自分から積極的に心を開く事もない。その自分を兄弟子と押し立て、胸襟を開いた友垣が典膳であった。それだけに、仲間として共に闘ってきた典膳と袂を分かつのは身を切るように辛かった。しかし、本人はそれを自覚できていない。認めるのが辛かった。只、自分でも説明のつかない憤りが全身に駆け巡っていた。

典膳が一刀斉の命に従ったのは、単に師匠の指示であったと云うだけではなかろう。矢張り彼は代々主に仕えてきた武家の出なのだ。

同門、というより戦友に近い善鬼より、主家の命を優先したのである。

"典膳よ__"

己自身、意識せざる善鬼の心の内は、恐らくこのような言葉になったであろう。

"典膳、貴様は行くのか。俺をおいて一人行ってしまうのか"

もしかしたら善鬼の典膳への想いはある種、衆道のそれに近かったのかも知れない。

「典膳__」

一刀斉が妙な巻物を手にした。

「これは我が流儀の秘伝じゃ」

秘伝の巻物__そのようなまやかしを最も嫌ったはずの一刀斉が、今では斯様な代物を用意して世間を謀るとは、その変貌ぶりにも善鬼は凄まじい怒りを覚えた。

「何、世間ではこのような小道具が珍重されるでな。わしの教えはこのような紙切れには入ってなどおらん。そなたら二人の血となり肉となって脈々と息づいておるわ」

一刀斉は笑ったが、善鬼も典膳も一言もない。

「ついては典膳、仕官に当たっての推薦状じゃ」

一刀斉は読み上げた。

「右の者、神子上典膳、この者技輛抜群にして数多の他流試合に臨み尽く勝ちを得たり。その兵法天下に並びなく、我が一門においても第一等と認める……」

「御待ち下され」

口をはさんだのは善鬼であった。

「我が一門において第一等とは如何なる事におわしますや?」

善鬼の疑問に、一刀斉は凍り付いた。


 


 


 

小金ヶ原異聞 ~一刀流創成記~    其の八


 


 

  
 


 


 

「いや__」

一刀斉は善鬼の顔色を窺うように言った。

典膳も何事かという面持ちで善鬼を見詰た。

「只の書付じゃ。大した意味はない。これから随身するに当たって典膳の為を思ってじゃの……」

「納得行きませぬ」

善鬼は堅い声で、断固として言い切った。

「師匠は、この善鬼めが典膳に劣ると申されるのか?」

「善鬼……」

一刀斉にも、善鬼が何を言わんとするのかが理解しかねた。

「落ち着かぬか善鬼。これは世間へのはばかりに過ぎぬ」

「と、なれば世間では一刀斉一門において第一等の使い手は神子上典膳、小野善鬼はその下に在ると噂致しましょうぞ」

「善鬼……」

一刀斉も言葉に詰まった。普段ならばこのように些細な事柄など皮肉な薄笑いでやり過ごす筈の善鬼が、何故ここまで食い下がるのか理解できないのだった。

今回の件は完全に一刀斉の勇み足だった。

一時、典膳が一行から離れた際、善鬼に決着を付けぬかとカマを掛けたことがある。善鬼は詭弁を立ててその申し出を曖昧に誤魔化した。既に善鬼の心は変わり、全ては穏やかに運ぶ物と一刀斉は期待していたのだ。否、内心は反発しても敢えて最後まで抗すまいと高を括ったのである。確かにもう少し慎重に事を運べば善鬼も反対の理由を見つける事は出来なかったであろう。一刀斉の軽率な推薦文は、善鬼に絶好の口実を与えてしまったのである。加齢による焦りか、病が齎した衰えのせいで気働きもおろそかになったのか、この一刀斉の拙速な行動が最終的には取り返しのつかない悲劇の幕を開けてしまったのである。

「……分かった。善鬼、そなたがそこまで言うのであらばこの推薦状は破棄しよう」

「今更斯様に仰せられた所で面目は立ち申さん」

「善鬼……」

善鬼の執拗さに、一刀斉もほとほと疲れてしまった。

「さればどのようにすれば、その方は得心致すのか」

「ここに居る__」

善鬼は典膳に目線を据えた。

「典膳めと一対一で尋常の勝負を致し、どちらが我が一門第一等かを証明したいと存じまする」

その一言に、一刀斉は茫然となった。

「ぜ、善鬼……」

力無い声音で、一刀斉は呟くように言った。

「そなた、己の言わんとする事の意味が分かっておるのか?」

「無論、言われるまでも御座らん、全て、重々承知の上__」

くどいまでに善鬼は念を押した。

元々、善鬼は一刀斉と、更に典膳に対していつかは決着を付けねばならぬと思い決めていた。しかし、一刀斉は老いと病にすっかり衰え、既に善鬼の相手は務まらなくなっている事は一座の誰もが承知している事であった。

そして__典膳との勝負も、避ける事の出来ない宿命であると善鬼は堅く信じていた。元来思い込みが激しい善鬼は常にそれを意識し、典膳本人の前で口にも出していた。その信念は強烈な暗示となり、自らの言葉に束縛されて自分で自分を追い込んでいった。そして今、行きがかりとは言えこの場で口にしてしまった以上、最早善鬼にも引っ込みは付かないのだ。

「無論、典膳が承知すればの話でござるが」

善鬼の一言は一刀斉にとって最後の望みであった。

「て、典膳……」

一刀斉は、救いを求めるような顔を典膳に向けた。

「お受けいたします」

典膳の回答に、一刀斉は奈落の底へ突き落され、善鬼は歓喜に打ち震えた。否、その震えが必ずしも喜びだけだったのかどうかは分からない。本人にも、その震えの意味するものが何であるのか、しかとは理解しかねた。只、己が身の内に強烈な震えが一瞬走り抜けた事だけは実感できた。

「善鬼殿がそこまで仰せられる以上はお受けする他ございませぬ。ここで善鬼殿の申し出を断ったとあらば善鬼殿に対する非礼であるばかりか、この典膳にとっても面目を失う事になり申す。謹んで、この勝負お受けいたしましょうず」

最早一刀斉の頭は完全に思考を停止していた。

「典膳」

善鬼は何かを噛み締める様に言った。

「よくぞ申してくれた。これでわしも兵法者としての一分が立つというものじゃ」

「善鬼殿__」

典膳もまた、感無量という気色で答える。

「もう、何も言う事は御座いませぬ。常日頃、善鬼殿が申されておった通り我ら二人はいつの日か刃を交えて雌雄を決せねばならぬ身でありました。どちらが勝ったとて遺恨を残さぬよう、尋常に試合いましょうぞ」

盛り上がる二人をよそに、一刀斉は顔色を失って狼狽していた。


 


 

一刀斉は考えていた。

否、考えようとしたが、思考が混乱し、何も考えられないでいる。

"えらい事になってしもうた"

一刀斉は後悔したが、全ては手遅れである。

"何とかこの試合を止められぬものか"

無理であろう。善鬼も典膳も、ここまで来た以上、後には引けないのである。

"わしが軽率であった"

今更悔いてもどうにもならないであろう。

"このまま二人が刃を交えれば……"

確実にどちらかが死ぬ。下手をすれば両方死ぬ可能性も高い。しかも二人の腕前は五分と五分、どちらが勝つかはその時の運次第なのだ。例えどちらかが生き残っても、無傷では済まないかも知れない。勝者も片腕片脚を失うなど、再起不能の大怪我を負う事が考えられる。木刀ですら確信的に殺意を抱けば相手を殺す事は簡単だ。ましてや真剣ともなれば、その気がなくとも、別に試合ではなくとも命を失う危険は大きいのだ。

"まさか、善鬼があれほど思い詰めていようとは……"

うっかり気を抜いた自分が愚かだったと一刀斉は憂色を深めた。

"如何にすれば傷を最小限に収める事が出来るのか……"

一刀斉にもまるで解決の糸口は掴めなかった。

このまま悩んでいても始らない。取り敢えず、試合を前に両名を呼んで自らの目で彼らの今を確認する他ない。結論を出すのはそれからである。何がしかの結論が出ればの話だが。

部屋の真ん中に衝立を立てて、一刀斉は一人坐していた。

「師匠殿」

ふすまの向こうから、善鬼の声がした。

「善鬼か」

「お召しにより、小野善鬼、参りました」

「__入れ」

善鬼は静かにふすまを開いた。部屋の中程に建てられた屏風を前に、善鬼は何事かを考えているのか、中々一刀斉の前に姿を現さない。

「師匠殿」

屏風の向こうから、善鬼が言った。

「師匠殿、進み出でてよろしいか?」

「うむ」

善鬼は、その巨体を軽々と舞わすと身を縮めて衝立を飛び越え、ふわりと一刀斉の前に降り立った。修験道の修行で山野を駆けまわった善鬼は、その大きな体からは信じられないほど身が軽い。

一刀斉の前に腰を降ろした善鬼は、静かに膝を整えると正座して控えた。

どちらも、何も言わなかった。

「__善鬼」

一刀斉がおもむろに口を開いた。

「今更、わしが言うべき事など何一つ無い」

一刀斉は包み隠さず胸の内を口にした。

「もし、そなたたちが考え直し、今度の試合を思い留まってくれるのならば、わしは何もそなたらに望む事など無いわ」

既に腹芸で相手の心中を探り合うような段階ではない。一刀斉は正直に心中を吐露した。

「折角のお言葉なれど、こればかりは師匠のお言付けに従う訳には参りませぬ」

善鬼もまた、その思う所を些かも飾る事無く師に告げるのだった。

「左様か」

分かっていた事だった。

「仮に典膳が試合を断ってもか」

有り得ぬ話である。正直、善鬼もどう答えてよいか迷ったが、きっぱりと言い切った。

「もし、典膳が試合を前に逐電致したる時には、地の果てまでも追い詰めて事の白黒をつける所存にござれば」

「そうか__」

一刀斉もこれ以上善鬼を説得するのは無駄だと諦めた。

「もう、何も言って聞かせる事はない。貴様らが命を賭けて渡り合う、これをわしがどう思うておるか、そなたには分かるか?」

「申し訳ござりませぬ」

善鬼は、素直に叩頭した。一刀斉にできる事と言えば精一杯皮肉な苦笑いを浮かべる事位である。

「不孝者め」

「面目次第も御座いませぬ」

「良い、下がれ」

一刀斉は疲労を感じながら言った。

善鬼が部屋を退出した。

「師匠、典膳にございます」

それからややあって、典膳が部屋の前に来た。

「入るが良い」

善鬼に命じて、衝立の事は口止めしてある。

ふすまを開けた典膳がどのような反応を示すか、見てみる為だった。別に最初から二人の振る舞いを観察しようと思い屏風を立て掛けた訳ではなかった。ただ何となく、それこそ大事な話を交わすので少しばかり気を配っただけなのだ。偶々、先に入室した善鬼が思いの外考え込んだ為、ついでに典善もその反応を観察してみようと思ったのである。

典膳もまた、屏風に隠れて姿の見えない一刀斉に対してどのように応じて良いか分からぬようで、そこに立って指示を待っているようであった。

「典膳、来るが良い」

「はは__」

典膳は屏風を飛び越えたりはしなかった。入るにあたって、用心深げに屏風を手で動かして中を覗き見ると静かに一刀斉の前に膝を付いた。

「こたびの試合、如何した」

「本心を申せば」

典膳は涼やかな顔で、些かも冗談を交えず答えた。

「迷うております」

「ほほう__」

一刀斉は声を漏らした。

「迷う、とは?」

「は__」

典膳は一息付いてから答えた。

「何をどうすれば良いか、迷うております」

「どういう事じゃ」

「それは……」

どう言えば良いのか、典膳も困っているらしい。

「善鬼が、恐ろしいか?」

「それも御座います」

一刀斉の問いに、些かも衒う事無く典膳は答えた。

「確かにの」

一刀斉は笑った。

「あの膳鬼めと試合うのじゃ。この世で恐ろしいと思わぬものなど居らぬであろう」

「誠に」

典膳は頭を下げて言った。

「じゃが、善鬼も恐ろしいのであろうな」

「__」

典膳は答えず、一刀斉の言葉を待っているようであった。

「善鬼は言いおった。もし、そなたが勝負を避けて逃亡した暁には地の果てまでも追い詰めるとな」

典膳は答えず、ただ困ったようなむず痒い様な顔を見せたのみであった。

「善鬼は、全てを捨てて挑んで来るのであろうな」

「はあ」

典膳も曖昧に答えるのみであった。

「もう良いわ。下がれ」

「はは__」

一刀斉は考えていた。

これから、どうすれば良いのか。どうすれば、一番無難に事を治める事が出来るのか。

未だ、答えは見つかっていなかった。


 


 

"どうなってしまうのか__"

一刀斉は苦悩していた。

明日にも善鬼と典膳が命を賭けた真剣勝負で刃を交える事となる。

"如何にすれば、傷を小さく事を収められようか"

善鬼と典膳、両雄並び立たずの諺の通りこの二人が倶に天を戴く事などあり得ない。憎しみではない、互いへの敬意、情愛が激しい闘志となって、ついにここまで来てしまったのだ。どちらかを抹殺する以外、彼らは引く事がないだろう。両方が斃れるよりはまだ救いがあるかもしれない。

追い詰められた一刀斉は、異常な思案に囚われ始めた。

となれば、どちらを残すべきであろう。

ふと、一刀斉は塚原卜伝の、後継者選考の話を思い出した。年老いた卜伝が自らの道統を門弟に譲るにあたり、その最終的な候補として三人を絞った。その折、部屋の戸に仕掛けを施し、開くと枕が落ちてくるという状況で候補者三名を順次呼び出した。一人目は"見越しの術"と呼ばれる予知能力でその仕掛けを見破り、入室する前から落ちてくる枕を予測して入ってきた。二人目は枕が落ちた際、一瞬刀に手をかけたが危険はないと判断してすぐに柄から手を放した。三人目は落ちてきた枕に肝を冷やし、うろたえて一刀両断してしまった。卜伝が後継者に選んだのは、予め全てを予測していた彦四郎であった。

"やはり、兵法者には用心が肝要か"

今になって、この様な他人の選抜基準を参考にして結論を求めるとは一刀斉もかなり追いつめられ、精神的にも負担が掛ってきていたのであろう。

一刀斉は、屏風を前にした昨夜の善鬼と典膳の振る舞いを思い出していた。

"典膳か"

いきなり屏風を跳び越えた善鬼に対し、一応向こうの状況を確かめた典膳の方がまだしも用心深いとは言えるかも知れない。善鬼とて、殺気は感じられなかった故、思い切って屏風を跳び越えたのであろう。しかし、殺気が無いからと言って必ずしも安全とは限らない。もしも何か仕掛けでも有ったら、人間の気配など感じさせる事無く相手を罠に陥れる事が出来るのだ。善鬼は修験者上がりでそれこそ予知能力とまでは行かないが感性は鋭く、たとえ仕掛けを施しても敏感に察知したであろう。この時無造作に屏風を跳び越えたのは、一刀斉が何の作為も持たず、無意味に衝立を用意していたからだった。寧ろ、最初は戸惑っていた善鬼だが、危険は無いと判断して思い切って跳び越えたのである。

"善鬼めは、用心が足りぬ"

この時、一刀斉が予め何かの意図を持って衝立を用意していたならば、善鬼の対応も変わったかもしれない。だが、一刀斉はまるでなんの意味もなく屏風を立てかけ、後になってから取って付けたようにあれこれ考えだしたのである。

一刀斉の心は決まった。

彼は恐るべき決断を下したのである。

それも愚劣極まりない結論を。


 

小金ヶ原異聞 ~一刀流創成記~    最終章


 

   終極


 


 

小野善鬼と神子上典膳__この二人の決闘は下総国、小金ヶ原で行われた。時に文禄元年。

「よいか__」

試合に先立って、師匠の一刀斉は厳かに言って聞かせた。

「この試合、どちらが勝とうが、敗れようが一切の遺恨を残してはならぬ__」

「心得て候」

「元より」

一刀斉の言葉に、善鬼も典膳も神妙に頷いた。

季節は晩秋、もう既に正午を過ぎて太陽は西に傾きつつあったが、時刻からすればまだまだ明るい。だが、空一面を分厚い雲が覆い、既に夕刻のような暗さであった。

善鬼と典膳は互いに向き合ってそこに立ち、お互いを見詰め合った。

「善鬼殿__」

典膳が声を漏らした。

「もう何も申しますまい。ここまで来た以上は逃げも隠れも致しませぬ。正々堂々と刃を交えましょうぞ」

「心得た」

典膳の言葉に、善鬼も小さく頷いた。

善鬼と典膳__この二人が、互いの胸中にどれほどの思いを抱いて今日のこの日を迎えたのか、余人に知る由はない。最早両者の間には彼ら二人にしか理解できぬ何かが生じ、そしてここにこうして立っていたのである。その何かは、誰にも分からない。師の一刀斉ですら、二人の強烈な思いを理解する事は不可能であった。

「よいか、くれぐれもこの試合によってどのような仕儀になろうと遺恨を残す事は相成らぬぞ」

一刀斉は今一度言い聞かせた。

遺恨など残る訳はないではないか。二人がこれから行うのは真剣勝負、名は試合と言えどその実は果し合いなのである。生き残るのはどちらか一方、生きて遺恨を残す事など有り得ないのだ。仮に運良く敗者が一命を取り留めた場合も、遺恨など残すつもりはどちらにもない。二人が自ら進んで臨んだこの試合、その結果がどうなろうとも恨みを残す事など断じて有り得ないと善鬼も典膳もしかと腹を括っていた。

善鬼は腰に帯びた粟田口をそろりと抜くと、中段の構えをとった。典膳も愛刀波平行安を鞘から抜き放ち、地摺り青眼の構えで善鬼に立ち向かった。

「されば__心して存分に試合うがよい」

一刀斉の承認を得て、ついに二人は決闘を開始した。

両者の全身から凄まじい気合いが迸り、互いを捕らえようと深く深く剣機を探り合っていた。空気が軋みを上げるのではないかと思えるほどの緊張が二人を捉え、一歩も譲らぬ気合いの攻防が続く。

雲の垂れ込めた低い空を、重い風が吹き渡っていた。

善鬼は動かない。

典膳もまた、微動だにしていない。

どちらも息を静めて必死に攻機を窺っていた。少しでも心を乱した方が負けである。動けば心に隙が生じる。かと言って、身を強張らせる事もまた許されない。居付いてしまえば敵の動きに対する反応が遅れて命取りになりかねない。浮船などとも呼ばれる、地を踏まない立ち方でそこに佇立していた。強風に煽られた、目も眩む断崖の上で綱渡りをするように、硬直せぬよう緊張を保つのは至難の業であった。煮え滾る溶岩を思わせる灼熱の気魄に包まれた、ささくれた様に凍て付く間合いが、否応無く善鬼と典膳を取り込んでいた。両雄、忍び寄るように用心深い足取りで、相手を自分の間合いに引き込もうと必死だった。まだ、どちらも地取りを制してはいない。僅かでも呼吸が乱れれば心も乱れ、勝敗は瞬時に決する。息を殺して懸命に呼吸を整える両者であった。

一刀斉は不思議な行動を取っていた。向かい合う善鬼と典膳の周りを、何かを窺うように行ったり来たりしているのである。その姿は善鬼にも典膳にも見えている。こういった決闘の最中、当事者の気を散らすような行為はご法度の筈だが、何かを探るように一刀斉は二人の周囲を歩き回っていた。その行動は善鬼も典膳も気にはなったが、今は目の前の相手が最優先である。そこまで考える余裕もなかったが、或いは試合の最中でも周囲に気を配れという、実戦の心得を試しているのかと師匠の行動を受け流していた。

善鬼は気合いを増した。

強烈な、押し込むような気に、典膳は思わず後退しそうになった。このような、間合いの押し合いは当然物理的な力ではない。人間同士なればこそ通用するのである。実際に経験した者ならば分かるであろうが、向き合って間合いをやり取りすると、現実に前に出られなくなるのだ。それに加えて恐ろしく体力を消耗し、汗は流れる息も乱れる、現実に疲労が蓄積するのである。特に修験者上がりの善鬼の気合いは言語に絶する物がある上に、いわゆる不動金縛りの術か何かでも心得ているのかも知れない。金縛りと言えば、兵法では二階堂流の松山主水が有名だが。

典膳に、この凄まじい気迫を押し返すすべはない。ひたすら耐え、勝機が訪れるのを待つ、これ以外に今は為すべき事はない。こうなれば持久戦だ。受けに回った典膳だが、善鬼もそう容易くは攻め込む事は出来そうにない。典膳が容易に崩れぬと見て、善鬼は更に底響きのする気合いを込めた。

二人の周囲を徘徊する一刀斉は、さらに奇妙な行動を見せた。なんと、腰に帯びたる自慢の差料、一文字の名刀"瓶割り"の太刀を引き抜いて、剣を片手に歩き回るのである。

流石に善鬼も典膳も不信を覚えたが、それでも今は気を散らす訳にもいかない。ただ、目の前の相手だけに意識を集中する以外に無いのである。

剣を携えた一刀斉の姿が、典膳の肩越しに善鬼には見える。一刀斉が刀を両手に持って、今にも斬りかからんとするようにすら見えた。

それでも善鬼は気を殺がれぬように必死で己を抑えていた。

そのまま歩きだした一刀斉は、今度は善鬼の背後に回った。その姿に、典膳も気を散らさぬよう集中力を保っていた。

不意に__善鬼の背後に回った一刀斉が歩を進めた。まるで善鬼に後ろから一太刀浴びせんとするようであった。否、太刀を構えた一刀斉は、今にも善鬼に斬りかかる所であった。

流石に典膳の意識が途切れた。

一刀斉の太刀が疾り抜けたその時__善鬼は素早く前に動いていた。典膳が集中を解いた瞬間、背後の殺気に身体が反応したのである。

「何を為さいます!?」

叫んだのは典膳であった。

振り返った善鬼は、咄嗟には今起きた事を把握できず、暫し__否、時間にすればほんの一瞬だったが__茫然と太刀を振りぬいた師匠の姿を眺めていた。

もし、一刀斉が善鬼の生死などに頓着せず、無心に斬りかかっていれば恐らく逃げ切れなかったであろう。一刀斉は善鬼の足を狙ったのである。その迷いがわずかな隙を生み、善鬼を取り逃がしたのであった。

「善鬼……」

一刀斉は声を漏らした。なんと言おうとしたのかは分からない。何やら済まなそうな表情が、間の抜けた印象を与えていた。

「……そうか……」

血の気を失った顔で、善鬼は呟いた。

「そう言う事であったか……」

太刀を握りなおした善鬼が、改めて物凄い形相で一刀斉に対した。

「おのれ一刀斉、そこまでわしが憎いのか__」

「ぜ、善鬼……」

この期に及んで一刀斉が何を言わんとするのか、今になって如何なる弁明を口にするのか、そのような事は今の善鬼にはどうでも良い事であった。

「こ、これは……」

善鬼が一刀斉に斬り付けた。一刀斉が辛うじてそれをかわす。

典膳は何をして良いのか分からず、そこに佇んでいた。だが、今は取り敢えず善鬼を止めねばならない。

「善鬼殿__」

典膳が力無く声をかけたが、それくらいで善鬼の怒りを止める事など出来るものではない。

「善鬼殿、待たれよ__」

「ええい、邪魔立て無用!」

善鬼が一喝した。

「典膳、貴様との決着はこの老いぼれを黙らせてからだ!」

典膳の制止など聞く耳持たぬ善鬼は更に一太刀、一刀斉に浴びせた。

「典膳__」

一刀斉が典膳に呼びかけた。

「善鬼を倒せ!」

典膳には、師が何を言っているのかが理解できなかった。

「善鬼を倒せ、早うせぬか、典膳、典膳!」

典膳は動かない。師である一刀斉の不条理な言動に、何をして良いのか判断できないのであった。

しかし、今は善鬼を止めねばならない。他に何も考えが及ばなかったが、それだけは判る。

「__うお__!?」

善鬼の太刀打ちを受け切れず、一刀斉が手にした得物を撃ち落とされた。

典膳が茫然と佇む前で、怒り狂った善鬼の太刀捌きに見る見る一刀斉は追い詰められ、手にした瓶割りの太刀も取り落とし、逃げる事もままならぬ有様であった。

「善鬼殿__」

漸く典膳は声を上げ、善鬼に呼びかけた。しかし典膳の制止などに、善鬼は全く応じない。

「善鬼殿、お気を鎮められよ!」

鎮められよと言われて鎮められるものではなかった。

「善鬼殿!」

ついに典膳は善鬼に駆け寄った。

「善鬼殿!」

「ええい、黙れ!」

「うわ__!」

戦意の無い典膳は憤怒に燃えたぎる善鬼の狂気じみた太刀打ちに手にした刀を飛ばされ、自身も草むらに転がった。

「善鬼殿……」

典膳は、ただ力無く呟くのみであった。

ふと__

「__」

典膳の手に、一振り刀が触れた。自分の差料、波平行安ではない。たった今、一刀斉が取り落とした瓶割りの太刀であった。無意識にそれを握ると、典膳は立ち上がった。

「ま、待て、善鬼。話を……」

「この期に及んで見苦しい!」

無手になった一刀斉に、善鬼は更に真一文字の一太刀を放った。

「うっ!」

とうとう一刀斉はその場に尻もちを付いて座り込んでしまった。一刀斉の懐から巻物が零れおちた。例の、秘伝書であった。

「ここまでですな、師匠殿__」

一刀斉を見降ろしながら、傲然と善鬼が立ちはだかった。

「姑息な手を弄して嬉しう御座るか?」

その場に座り込んだ一刀斉は、恐怖の色を浮かべたその目で善鬼を見上げた。歯の根も合わぬほどに震えたみすぼらしい、見るだに哀れを催すその姿に、善鬼は言い知れぬ怒りを覚えた。

"師匠殿……"

善鬼は、何と言ってよいのか自分でも分からぬ激情に駆られていた。

世に剣聖と名を知られ、本朝数多在る武芸者から畏怖と羨望の目で仰がれた、伊藤一刀斉の無残な姿に善鬼は目も眩むばかりの憤激を、悲哀を、そして屈辱を覚えていた。

卑怯な手段を用いて善鬼を仕留め損ね、逃げ回った挙句に草むらに座り込み、今にも命乞いでもしかねないその老人は最早名人でも剣聖でもない。

これがあの一刀斉なのか。

かつて大和川の辺で己を打ち据え、今の今まで師として限りない尊敬と感謝の念を抱き、いつか倒すべき目標と目指してきた、あの一刀斉とは信じられなかった。

許せぬ__善鬼の偽らざる想いだった。

一刀斉は全てを裏切った。

これまで一刀斉を信じて従ってきた自分を、典膳を、そして彼の名を高らしめる為に散っていった武芸者たちを、流儀の継承という美名の元に斬捨てた嘗ての門弟たちを。

そして、何より過去の一刀斉自身を裏切ったのである。

"全てに決着を付ける__"

善鬼は、何かを振り切るように今一度大きく息を吐くと全身に気合いを漲らせた。

ふと__善鬼の目に、秘伝の巻物が映った。

何を思ったか善鬼は、巻物を拾うと口に咥えた。修験道には巻物を咥えて印を切り、精神を集中する行がある。その時の習性が自然に出たのかも知れない。巻物を口にして一刀斉を見降ろす善鬼の姿は妙に芝居じみて、後世の人間が見れば歌舞伎の児雷也を連想したかもしれない。その、ある意味では滑稽な姿は却って不自然な凄みを醸し出し、この世の者ならぬ壮烈な違和感を漂わせている。恰も一刀斉を冥土に引き摺り下ろす為、別世界から立ち現れた異形の存在のようにも見えた。

巻物を咥えた善鬼は、刀を構えて振り被った。

一刀斉は死を覚悟した。恐怖も感じてはいただろうが、この瞬間まで善鬼に命乞いだけはしなかったのは、一刀斉に残された最後の矜持だったのかも知れなかった。

"さらば、我が師よ__"

上段に掲げた刀を振り下ろそうとした、その時__善鬼の背中に、冷たい衝撃が疾り抜けた。

「!」

善鬼が振り返ると、そこに典膳が立っていた。

その手に、血の滴る"瓶割り"の太刀を携えて。

信じられないものを見る目で、善鬼は典膳を見つめていた。

一刀斉は、未だ何が起こったのかを把握できないでいる。

ぜえぜえと、息を乱したまま、典膳が善鬼と対していた。典膳が、何かを言おうとした。どんな言葉を口にするのかまでは頭が回らない。只、善鬼に何かを語りかけようとした。

が、その目に憎悪の炎を湛えた善鬼は今一度、手にした剣を大上段に振り被った。

重低音のようにあからさまな殺気に、典膳の身体が無意識に反応した。

「__!」

典膳の一太刀が、善鬼の左肩に食い込んでいた。典膳の脇すれすれを、善鬼の太刀打ちが疾り抜けたのと同時だった。

「__ん__ぐう__」

鮮血を噴出した善鬼は、仰け反ってその両眼をくわっと見開いた。巻物を咥えたままの口から、くぐもった叫びが漏れていた。

典膳は、喘ぎながら茫然とその姿を眺めるばかりだった。一刀斉は、漸く状況を悟ったのか、眦を見開いて事の成り行きを見守っていた。

その時、天から雨粒が落ちてきた。

「……善鬼……殿……」

断末魔の善鬼に尚も、典膳は何かを語りかけようとした。

「……ぜ、善鬼……」

一刀斉の口からも、思わず言葉が漏れた。

だが、彼らの呼び掛けは善鬼の耳には届いてはいなかった。方から噴き出す自らの血しぶきで赤く染まった善鬼は、前へ後ろへ、おぼつかぬ足取りでヨロヨロと揺れたのち大地に倒れ込んだ。大きく見開いた両目が、無念げに天を睨み、その口には依然巻物が挟まっていた。

「……善鬼……ど……の……」

仰向けに倒れた善鬼は暫らく痙攣していたが、やがて最後の蠢動を止めたのである。

重苦しい風が、小金ヶ原の草原を吹き抜けた。

善鬼はその場に倒れて絶命していた。

典膳は放心状態で立ち竦んでいた。

一刀斉が、脱力感とともに座り込んでいた。

「……う……」

やがて、典膳の口から嗚咽が漏れ出した。

「うおーっ__!」

典膳は絶叫した。

善鬼は身動ぎもせず、そこに倒れていた。

「典膳……」

その姿を、救いようもない罪悪感にさいなまれた一刀斉が見守っていた。

雨足が更に勢いを増してくる。本降り間近の雨垂れである。

「__善鬼殿ォーー!」

天に向かって、典膳は叫んだ。

「何故__何故え__!」

典膳の頬に、滴が滴っていた。

刻々と雨を降らす雲のかかった曇天を仰ぎながら、典膳は悲憤と、そして恨みの絶叫を放っていた。

「善鬼殿、善鬼殿―__!」

何に対する恨みだったのだろう。

無二の友と言うべき兄弟子を葬らねばならない自らの運命か、対決を迫った善鬼にか、卑劣な手段でこの決闘を穢した師匠一刀斉にか、それとも、誰でもない、己自身の存在を恨んで声を上げたのかも知れない。

「善鬼、殿ォー!」

雨の降りしきる小金ヶ原に、典膳の号泣が鳴り響いていた。